2026年8月9日日曜日

そのひとの おもうこころを うたにした なぜにずかずか はいりこむのか

■ 2026-08-09
■ 塚本邦雄・新撰・小倉百人一首で、「・・・式子と定家とあと二、三人をのぞけば、他は一切凡作と、・・・」としているが、これはそのまま信じられない。
■ 例えば、定家の歌を比べてみよう。
  1. 見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ
  2. 来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
■ 1」より、2」の方がいい。
■ 「浦」にはもともと「花も紅葉も」ないのは当たり前、だから定家の発見でもなんでもない。「浦」に桜が咲いたり、紅葉があったりしない。定家は、日常的には、「浦の苫屋」とはなんら関係ない生活をしていたのだろう。だから、たまたま、珍しく感じたに過ぎないようだ。そして、次の歌と比べれば、良暹法師の方が内容的には「寂しさ」のとらえ方としては現代的だ。

さひしさに やとをたちいてゝ なかむれは いつくもおなし 秋のゆふくれ 良暹法師

■  「来ぬ人を まつほの浦の 夕凪に 焼くや藻塩の 身もこがれつつ」は歌としては表現がいかにも強引すぎるが、それは定家の気持ちで、百人一首は定家のものだから、人にとやかく言われる筋合いのものではない。「小倉~」と題にするからには、少なくとも、定家の歌はそのままにしておくべきではなかったか。さらにいうなら、ある歌は、この方が定家の歌に会うのではないかと選んでみてもよかったかもしれない。