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雑記
漢詩ばかりじゃ、つまらない
大阪市立東洋陶磁美術館に加えられたコレクションの中に篆字銘のある青花の壷があり、その詩に
莫使空対月 満懐都是春
とあった。これをどう訳したらよいか、言葉にならないまま何日か過ぎたが、ある晩の風呂上りに、ひょいと浮かんだ。
おぼろづき ひとりぽっちは いやですよ
都都逸的なところが気に入り、壷に詩を書いた人と心の交流ができたような気がした。
国家や人種・民族に関係なく時間や空間を超えて人の心がある。長い長い時間のなかで言葉や文字自体のなかにこめられた人間性がある。詩歌にするとはそんな言葉にこめられた心をもう一度取り出すことで、表現とは意味ではなく言葉であり、言葉自体が詩的要素を内包していて、詩歌は言葉そのものだ。
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詩歌は書き留めるだけでなく、コンピュータでまとめ、編集・印刷・製本して初めて完成という気がしていた。しかし、本では一冊に数百から数千の句を入れることもでき、少な過ぎると形にならないので、多くなり過ぎる。
毛筆で書く場合、字面が悪く形にならないものは書かないこともあり、必ずしもいい句が残るとは限らないが、全てを書くというわけにはいかず自然に整理される。表装して完成ならば、なお更だ。
書は空間を占めるため、接する時間や距離が活字と違い、記号としての文字の意味の他に何かある。言葉を文字に形作り、文字に心を込める作業とでもいうか、詩の本質に近付くひとつの道かもしれない。自作の好きな詩を書くときと、そうでないときの違いがその現れだ。
文字には長い歴史があるが、先人の思いとか、書き方や文字の成り立ちにほとんど関心なく理解もせず、今まで長い間、意識しないで書いてきた。万年筆や鉛筆、あるいはボールペンで書くように手軽でない毛筆の場合、思うように書けないのは用具として使い慣れないから、技が身についてないからだと一応考えられる。だが、そうではない。思うように書けないのではなく、無意識かもしれないが、思っているようにしか書けない。
自分にとって、書は自作の俳句や歌や詩を毛筆で書くことであり、今のところそれ以外ではない。読んで楽しめるように書ければよい。気持ちよく書け、見て飽きがこなければそれでよいが、書くことにより文字に関する興味もわいてくる。人の書に何かを見出すこともある。自然に出てしまった自分を逆に知ることもある。そうして、文字自体の本当の意味が分かり、書が分かり、言葉、そして心が分かってくるのだろう。
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「あとがき」をこの辺まで書いて、かなり時間が経ち、続きを書いているが、状況は変わっている。今まで作った句歌のうちどれだけ書にするか、「漢詩に遊ぶ」以外はほとんど書いてない。
詩歌を木版や銅版にすることにも興味があるが、筆で書くだけでも紙や墨など分からないことも多く、道具や材料、作業する場所も問題で、裏打ちしたものがたまってゆく。気に入らない大半を破り捨てても、油絵を描いていた時と同じで、置き場所の問題が表面化する。詩歌が物として存在することによる変化だ。本と違ったおもしろさもあるが、表現としての書であること以上に、物に付随している様々な要素や側面が重い。
手間暇かけて軸や額に表装しても、十分な壁も保管場所もないのだから、何十という数でも多過ぎる。気に入ったのが数点あれば十分のようだ。しかし、新しい句や歌を作るより書がおもしろく、楽しい。今はその楽しさを楽しみたい。
先に上げた「ひとりぽっち」の詩を軸にして眺めている。
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書くにつれ、書には終わりがないことに気付く。楽しさばかりでなく、自分自身を超えられないことを知らされる。これは思っているようにしか書けないということと同じであろう。
以前と同じには書けないことにも気付いた。これから先、十年、二十年と書いているとあるいはもう少し自然でましな書になるかもしれないが、それはそのときのこと。気分、気力、雰囲気等、書に影響することは多く、今は今、今書く書は今のものだ。
直接的には筆と紙で、道具の筆はまだしも、紙は多様で特に紙質はやっかいだ。
紙の寸法はおおよそ
全紙 136*70 cm
半切 136*35
聯 136*17.5
聯落 136*52.5
展覧会の作品は聯落が多いそうな。その書がどこに置かれるかにより紙や文字の大きさが決まる。昔は床の間があり、掛け軸は不可欠だった。今、自宅では居間の壁に掛けている。一般に私的な空間ばかりではないが、生活の中で楽しめる書、住まいに調和する書、その空間に合う寸法の紙ということで、私は半切を半分にした紙をよく使う。
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以前、方二寸の石に二人でそれぞれ「人書倶老」と刻し、ひとつの軸に仕立てたことがある。あっさりと落ち着いた軸で飽きないが、なかなかその境地には至らない。
妻が言う 人生って何だろう さあ何だろう 何でしょうかね
句や歌を作り、整理し、書にする、ただ、そんな日々の中に時は過ぎ、
木洩れ日や岩波新書顔に乗せ
といった心地よい日常であればよいがと思う。
父や祖父にならえば寿命は約八十年程度か。そこまで生きても、明日死んでも悔いはない。
うかうかと世に過ぎすごし天命を知るべきときははや来たりけり
非凡なる才もなければただ今の喜怒哀楽を妻と分かちて
こんな歌を作ったこともあった。作らない彼女にしてみれば「分かちて」ではないだろうが、軸に仕立ててくれる。
表装すると作品になり鑑賞できる。きれの使い方や配色など仕上がりが一幅ごとによくなる。反面、作品のまずさも分かる。/かけじくに したてながむる わがうたの
つたなきもじを きみはわらいぬ/である。
はぎれで短冊掛けができ、短冊に書くことも多くなった。気軽だ。色々な短冊があり楽しい。寸法は
短冊 36*6 cm
短冊の形と定型詩の句・歌、この関係はおもしろく、短冊には短歌がよく合うようだ。
ゆくかわの ながれはたえず しゅんじゅうの
うつろうときの さみしかりけり 遊水
かなで書くときこの字数が程よい変化をもたらすが、やはり歌は懐紙か、
懐紙 48.5*36.4 cm
短冊の橫約八倍の大きさだから、歌一首、のびのび書ける。紙は今より貴重だつたと思われるが、毛筆を日常的に使用していた時、どのような速度で書いていたのだろう。漢字の場合は時間をかけた方がよいようだ。和歌は書きながら作るのでなく、出来上がったものを書いたであろうから、配置を考えながらも、かなり速く書いていたのではないか。
速度に合った字体がある。
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新しい字体、新しい書体はどのような過程でできるのか。元々刻みつけていた文字を、抵抗感の少ない毛筆を用いて紙に書くことで形が変化した。用具が字体を変え、更に用から美を生み出し、表現と価値観を変えた。記録として石碑に刻み、拓本を採るという複写法が楷書を生み出すひとつの要因となり活字が生まれた。
古い書を見た後、自分の書を眺めながら、コンピュータは字体を変えるだろうかと思う。アルファベットのように字数が少ないと新しいフォントを作りコンピュータで普及させることは簡単だが、漢字は数が多いので容易ではなさそうだが、手書き文字を読み処理するソフトもある。偏や旁を組み合わせ、縮小・拡大・複写・再構成、偏が右にある古い文字を見ると漢字作りもおもしろそうだ。
「用具が字体を変えた」のであれば、例えば、筆を刷毛に換えればよい。元々、筆の太さ細さ、硬さ柔らかさ等々、用具を選んでいた。絵のように筆でなくエアブラシを使う方法もあるかもしれない。
人が書くから当然人間性があり、違いがあり、多様となる。その人がその人なりに書くことで用から美が生まれた。美が無くても用があればよいが、用が無くなれば美は空虚だ。活字の場合でも古いものは何か垢抜けてなく洗練されてゆくように、ひとつひとつの文字の作り、字体、字形として新しさを出せるならそれがひとつの書のあり方であろう。
展覧会にゆくと、それぞれ書風があるかにみえ、書体を工夫しているように見えるが、感動がなく、共感できるものが少ない。草書体をよく知らないからでもあるが、まず読めない。そして多くはなぜそのような字体で書くのか、なぜそれを書いているのか分からない。何を伝え何を残そうとしているのか、その何かが見えない。心が見えない。ならば書とは何か。
私の場合、自らの詩歌を書くことが書であつた。何も詩歌に限ることはないが、書くまえに詩歌がある。表現したいものがある。それを書にする。自然な流れだ。そして、そこに文字あるいは言葉を書く楽しさがある。書にするときの墨の濃淡、にじみ・かすれ、太さ・細さ、硬さ・柔らかさ、強弱、等々、紙、墨、筆等の違いによる変化は限りなく、楽しい。
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「漢詩に遊ぶ3」のあとがきを書こうとしていたが、横道に逸れてしまった。月日も経った。
暑さにも負けて筆もとらず何ケ月かが過ぎ、朝夕虫の音もするある日、帰宅すると、一緒に表装やっている人から島崎藤村の「初恋」と三好達治の「いしのうえ」を書いてって頼まれたからお願いね、と言う。「甃のうえ」は詩集「測量船」を開いて、それと気付いた。さて、どう書くか。「初恋」は「まだあげそめし」から「ひとこひそめしはじめなり」まで、前半を横長に書くことにした。「甃のうえ」はことばが流れるように美くしく、難しい。書き終えて達治の心を考えた。
「四十代の作かしらね」
「いや」どちらも二十六才の頃だ。
初恋 一八九七年(明治三十年)(若菜集)
甃のうえ 一九二六年(大正十五年)
「孤独って感じじゃないようね」
「うん」
語らいゆく若い娘達の肩に背に、そして黒髪に桜の花が散りかかる。「花吹雪って素敵ね」と、うららかな空を見上げ、靴音も軽ろやかに行き過ぎる。
静かな古都の佇まい故、私はひとり影を歩ませるようにひそやかに石畳の道を少し離れて心楽しくゆっくり歩いた。そんな思い出のある旅だった。
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
み寺の甍みどりにうるほひ
廂ひさしに
風鐸のすがたしづかなれば
ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃のうえ (達治)
意識して読み直した。今、こうした抒情詩を見直すのがよいようだ。
娘らの華やぎすぎる花吹雪
ゆく春や影あゆまする石畳
娘らの華やぎすぎる花吹雪影あゆまする敷石の路
しばらくして、「漢詩ばかりじゃ、つまらない。童謡みたいに分かり易い詩を書いて」と言う。さてさて、と窓の外を見た。
秋の日
おいしいお茶をいれるため
紅茶の缶を手にとって
説明文を読みました
ONE SPOON FOR YOURSELF
ONE FOR THE POT
と書いてます
紅茶ひと匙あなたのために
もうひと匙はポットのために
いつもコーヒーいれるけど
今日は紅茶をいれました
ざくろが枝に赤いから
厚いカーテン開いたら
大きな柘榴がありました
赤く大きなざくろの実
花を見たのはいつのこと
それからずっと窓閉じて
何も知らずにいたけれど
厚いカーテン開いたら
赤いざくろがありました
窓を開いて見ています
いつもコーヒーいれるけど
今日は紅茶をいれました
ざくろが枝に赤いから
/ざくろ割れてキラキラ朝にガラス玉/と初霜の便りも聞かれる頃、妻が書道教室に通い始めた。
私は小学生の頃、習字をやらされた記憶はあるが、書の雑誌は見ても臨書はしたことがなく気ままに書いている。そのうち妻に教わることになるかもしれないなと、その字を眺めて思った。
並べ掛けると、存在感のある書とそうでないものがある。先にあげた「ひとりぽっち」の書は多少粗野であったかと思う。紙の大きさや文字の大きさでなく、激しくもなく、整い過ぎてもない、勢いとか、上手・下手、優雅かどうかではなく、存在感のある書、読んでその内容が字と共に記憶される書、迫ってくるのではなく、惹き付けられる書がいい。
蕪村の「春風馬堤曲」は長いので「北寿老仙をいたむ」を書いてみたが繰り返しが多い。井上靖の詩も部分的に書いてみた。共感するものがあるが、やはり自分の詩か。
長い詩と違い、歌は書として扱い易い。どれにも「ゆび」の歌三首、並べてよく書く。同じものを書いて欲しいんだって、と言われ、また書いた。
みぎのての ゆびをほのかに
ほほによせ よのひとおもう
みほとけのかお
つまみもつ ゆびのかたちも
かろやかに くだらかんのん
たちにけるかも
つづみのね きこゆるごとく
そのひとの ほのかにあかき
ゆびのさきかな
遊水
妻の篆刻になる朱文の雅号印「游水」をよく使うが、黒と白に朱色の印、その様がいいなと思うことがある。同じ文字でも、これがまた魅力の、小さいようだが深い世界だ。
詩歌の書に篆刻、更に画があればなおよい。妻と二人で掛けられれば、もっとよいが、少し先のことか。