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2026年8月28日金曜日

飲みすぎた 歩きましょうか そこいらを 春宵一刻値千金  遊水

■ 2026-08-28
■ 先日、こんな頁を書いた。
■ 今回は、この続きだ。
■ 2番煎じだが、やはり自分の言葉で詠むのがいい。

飲みすぎた 歩きましょうか そこいらを 春宵一刻値千金  遊水
 
春夜  蘇軾
春宵一刻直千金  はるのさかりの つきあかり
花有清香月有陰  かおりのはなを てらしいて 
歌管樓臺聲細細  はなみのえんも おわるころ 
鞦韆院落夜沈沈  ぶらんこよるに しずむかな

帰りましょ 恋人たちの その後は 鞦韆院落夜沈沈  遊水

2026年8月23日日曜日

春霞 日は落ち空に 朧月 菜の花畑 懐かしきかな  遊水


■ 2026-08-23

照りもせず 曇りもはてぬ 春の夜の 朧月夜に しくものはなし  大江千里
不明不暗朧朧月
不暖不寒慢慢風
獨臥空床好天氣
平明閒事到心中 白居易
春といへば なべてかすみや わたるらむ 雲なき空の 朧月夜は  小侍従


2026年8月16日日曜日

はちがつの むいかここのか じゅうごにち 歴史にのこる にほんの俳句  遊水



■ 2026-08-16
■ 昨日、初めて知ったが、すごい俳句だ。
  • 8月の6日9日15日
■ この句は、見るだけでは、ただの日付かと見られるかもしれない。
■ 声に出して読むことが重要だ。
■ なので、かな書きにした。

はちがつの むいかここのか じゅうごにち 
  歴史にのこる にほんの俳句
こえにだし よんでください なんどでも

■ 連句的に書いた。
■ このように、俳句を元に短歌にした。
■ 本歌取りということだが、この短歌は私が初めてのようだ。

2026年7月30日木曜日

さしずめ、消えた8時間の謎、とでも言うのか


■ 2026-07-30
  1. 額ささやかに打つあられかな
  2. 額ささやかに撲つ夕あられ
「四条橋おしろい厚き舞姫の額ささやかに打つあられかな」と覚えていた。与謝野晶子は何度か直していたのか。なるほど。やはり、これでいい。
こんなことにも気が付いた。


謎ではないよ、ワトソン君、移動時間だよ。
与謝野晶子の歌にも「三里」が出てくる、こっちは「大原」ではない。西の方だ。
  • ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里 水の清滝 夜の明けやすき
「京へ三里」は字余りだ。調子からいえば「へ」はない方がいい。
夏の歌なので、「夜の明けやすき」はあたりまえ、といえば、あたりまえ。
ついでながら、松尾芭蕉は
  • 清滝の水くませてやところてん 芭蕉
こんな句を作っていたようだ。今、知った。

2026年7月26日日曜日

みやこまで 三里のみちの ゆきかえり いづこもおなじ あきのゆうぐれ  遊水 2026-07-28、07-29


■ 同じ題で 以前も書いている。書き直したというコトだが、どうかな、と思う。


2026年3月24日火曜日

■ 2026-07-26
■ 地球は、太陽の周りを公転しながら自転している。なので四季があり、夜と昼がある、などと、百人一首の歌の話で、言及する必要があるのかね、嫌だね。まったく。
■ 国立天文台で調べれば、日の出、日の入り、の時刻は分かると思うが、普通、朝起きて、昼間に仕事などして、夜になると寝る。 一応、常識だ。
■ 起きて、寝るまでに何時間かある。
■ さて、そこで何をしようかな、というコトだが、何か心が定まらない、ということもあるだろう。
■ 喜怒哀楽、という言葉があるが、いかにもチャイナーぽい言葉だ。喜怒哀楽で気持ちを表せるような気がしない。
■ 「さみしいな」というときもある。
■ 独りでいると寂しい。なので、そんな時どうするのか。友達もいなければ、賑やかなところに行こうと思うかもしれない。人によって違うだろう。
■ まあ、そんなことを考えながら、読んでみるといい。

さびしさに やどを立ち出でて ・・・

■ こんな風に始まる歌がある。先は読まず、と言っても、既に、何度も読ん暗記しているが、もう一度、はじめに戻り、ここでじっくり考えよう、ということだ。あわてることはない。和歌は31文字しかない。もっとも、この歌は、字余りのようだけれど、残りは、5・7・7だ。先を急いではならない。彼は何をしようとしたのか。彼の気持ちに寄り添ってみようじゃないか。
■ 「やど」とは自分のうちのことだけど、まず、何時に起きたのか。そして、何時頃「うち」を出たのかね。限定しなくていい。例えば、7時に起きて飯を喰い、8時に出たと仮定すればいい。都合が悪ければ訂正すればいい。あくまで、仮定だ。千年も前の人間の行動を確定できるはずもないし、確定する必要もない。9時に内を出たのであってもいい。
■ 内を出て、出っぱなしではない。当然、帰ってきた。いつ帰ってきたのか。

「ゆうぐれ」だった。

■ 季節は秋、「秋の夕暮れ」は寂しい。まあ、普通の感情だ。
■ 「さびしさに」うちをでて、寂しい感じの「秋の夕暮れ」に帰ってきた。
■ なので「いずくも同じ」ことだった。寂しさが解消されたわけでもなかった。
■ 朝9時に出て、仮に、夕刻、5時に戻った、とすれば、8時間がある。
■ 8時間で何があったのか。
■ これを解決するには、彼がどこに住んでいたかを考える必要がある。
■ 「さびしさに」だから人があまりいない所だったろう。

〇    〇    〇

■ どこに住んでいたか、歌からは分からない。島津忠夫・新版百人一首に書いてあった。

晩年は山城国大原に籠った
さひしさにやとをたちいてゝなかむれは いつくもおなし秋のゆふくれ 良暹法師

■ なるほど。これについて考える前に、
■ 江戸時代に、尾﨑雅嘉は、次のように書いている。

歌の心は余りにも物淋しさに我が宿を出でてあちこちを眺め渡せば、ここもかしこもさして変わる事もなう、おなじやうに淋しき秋の夕暮れの景色ぞといふ事なり。
・・・ 
この法師の住まれたる所は山城国愛宕郡の大原なり。これは都の北三里のほかにありて、八瀬村の北に当たれり、・・・
今草府村寂光院の東南2丁ばかりに泉あり。土人これを朧の清水といえり

■ 島津忠夫は、・・・
 
あまりのさびしさに耐えかねて、庵を立ち出て、あちこち見わたすと、どこもかしこも同じで、心を晴れ晴れさせるものはない。 なんとさびしいながめの秋の夕暮れの景色よ。

■ 島津は尾﨑の解説に「心を晴れ晴れさせるものはない」と追加しているが、ほとんど同じだ。もう少し、他の人はどのようにとらえているか見てみよう。

歌人  
草も木も枯れ枯れになる秋。 寂しさに僧庵を出て四方のけしきを眺めてみると、あきの夕べはどこも同じで、すべてが枯れ衰え、身も心も細りゆくような思いである

詩人
あまりのさびしさに庵を出て
ぐるり あたりを眺めわたした
なにもない
誰もいない
どこもかしこも
さびしさだらけ
秋の夕暮れが
ただぼうぼうと ひろがっていた

小説家
何とはないさびしさが
そぞろ 身を噛む秋の夕
たまらなくなって
家を出てあたりを見れば
どこも同じ
ひといろに
ものさびしい秋の夕暮れ

白州正子
いかにも俊成・定家の好みそうな幽寂の境地を歌っており、・・・、百人一首の世界もついに墨絵のような心境に至ったかと思うと、おのずと感慨が湧く。・・・、洛北大原に住んでいたらしく、「朧の清水」を詠んだ歌が残っている。今も、・・・「大原御幸」にも謡われた名水である。そういうことを心に置いて味わってみると、大原あたりの景色が彷彿とされ、浮世を離れた庵の有様が浮かぶ。特にこの歌を百人一首にえらんだ頃は、新古今の調べも定着し、その先駆けをなす秀歌として賞玩されたのでのであろう。
 
■ 「朧の清水」を詠んだ歌は、尾﨑雅嘉の解説に記載されている。「大原御幸」にも謡われた名水、とある「大原御幸」については、一応「平家物語」にもあたってみた。白州正子は「能」に詳しいのでこのような記述のなったのであろうが、想像しすぎかもしれない。
■ 寂光院には行ったことがある。当時も寂しかっただろう。大原は都の北三里にあった。良暹法師は、ここにあった庵を、おそらく朝に「立ち出でて」都まで行ったのだろう。

一里は3.92727km、約4km、
一キロメーターを十五分で歩くとすれば、四キロメーターは約一時間、
三里の道は約三時間。 都までは、日帰りできる距離だ

■ 片道3時間、往復で6時間、みやこで、団子など食う時間が2時間だとすれば、その日の行動が推定通りだったことが分かる。これを歌にした。「秋の夕暮れ」が寂しいのではない「自分自身が寂しい」そして、誰もがそんな気持ちになることがある。どこにいても、山里でも、賑やかだと思われる都にいても、寂しい時はさびしい。「人恋しさ」であるかもしれない。
寂しさは「秋の夕暮れ」どきに限るものではない。寂しいときは寂しい。

〇    〇    〇

みやこまで 三里のみちの ゆきかえり いづこもおなじ あきのゆうぐれ  遊水

さひしさにやとをたちいてゝなかむれは 
いつくもおなし秋のゆふくれ  良暹法師

お江戸日本橋 七つ立ち、を検索すると
「七つ立ち」とは、江戸時代の時刻制度に基づき、暁七つの時刻に出発することを意味します。現代の時間に換算すると、午前4時前後にあたります。民謡『お江戸日本橋』の歌詞では、日本橋を出発した旅人がまだ暗い中で提灯を持って歩き始める様子が描かれています 暁七つは、明け六つ(夜明けの時刻)より1刻前で、春分の頃では3時22分頃に相当する場合もあります
「七つ立ち」は日本橋を起点として、旅立つことだが、同様に、「たち・いでて」という複合動詞は、このうたの場合、旅ではないが、移動してどこかに出発することを意味する。ただ立ち上がって外に出たということでは、もちろん、ない。
漕ぎ・出でて
打ち・出でて
立ち・出でて
このような言葉があり、「打ち・出でて」は百人一首にある「田子の浦にうち出でてみれば~」の歌にあるが、これも何か変な現代語訳になっている。それは万葉集にある歌の原文を見ないからでもある。

田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける

「馬に鞭打ち~」と訳しているのは見たことがない。「漕ぎ・出でて」はさすがに舟を漕ぐという認識はあるようだ。しかし、交通手段としての、馬の文化は失われている。「立ち・出でて」も失われているが、YouTube で動画をみながら、小唄など口ずさんでみればいいように思う。ザ・ピーナッツも「お江戸日本橋七つ立ち」𝅘𝅥𝅮 を歌っているのを発見した。

さひしさにやとをたちいてゝなかむれは 
いつくもおなし秋のゆふくれ

「さびしさ」は、漢字では、淋しさ、ではなく、寂しさだろうが、一応、白川静の辞書を見てみよう。












2026年7月11日土曜日

夢に見た 君の横顔 若かった 白い砂浜 あの遠い夏、と、観覧車 2026-07-12



■ 2026-07-12 「白い砂浜 あの遠い夏」に訂正した。
■ 2026-07-11
■ 朝刊の 今日は土曜日 短歌の日 たまにオモロイ 歌があるなあ
  • 横顔の 夫が夢に 現れて 腹が立つほど 若かったこと  さいたま・菱沼真紀子
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■ この頁「ヒデとロザンナ」聞いたけど、同じ想いか 似ているような
■ そして、わたしも、作ってみた。
  • 夢に見た 君の横顔 若かった 白い砂浜 あの遠い夏
■ これを見て、みなさんも、下の句を作ってみたら、いい。いろいろな状況があるだろう。

夢に見た 君の横顔 若かった 


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2026年7月10日金曜日

弱いけど 先に生まれた お兄ちゃん 天に唾はく 弟がいて

■ 2026-07-10
■ ほこほこと うまい焼き芋 連想し 地球儀回し おもいぬるかな
■ 和歌短歌 みそひともじの 短さよ なれど伝わる 心よせれば 
■ ・・・
■ 話変わって、風の又三郎
  • この風は 又三郎だ どっどどどう 野分過ぎゆき 又三郎は
■ もう少し 何とかならんか 梅雨晴れて 頭に残る 雨の滴が

2026年7月9日木曜日

トランプに 片目のジャック 二つある 鋭い剣と 本当の愛、と、砂に書いた「L O V E」の文字



■ 2026-07-09
■ こんな頁が閲覧されていた。


■ そこで一首。

トランプに 片目のジャック 二つある 鋭い剣と 本当の愛

Trump has the one-eyed jack, 
two of them, 
a sharp sword, 
and true love

■ ・・・

・・・この訳でいいの?、砂に書いた「L O V E」の文字

■ 逆の場合もある。
■ ↓、これら3つは番号順に作った。
  1. 戯れに 砂に描いた 愛の文字 すぐに消え去り 今はもう秋  遊水
  2. 夏されば 外の遊びも あきの風 さびしさ寄せる 人もなき浜    遊水
  3. 夏去れば、満ち来る潮を 待っている 消したい名前 明日の日のため  遊水
The words of love I playfully drew 
in the sand 
vanished quickly, 
and now 
it's already autumn.

When summer ends, 
even playing outside, 
the autumn wind brings loneliness 
to this beach 
with no one around.
この歌の場合、「あき」は「秋」と「飽き」の掛詞が英語では表せない。

When summer ends, 
I'm waiting for the incoming tide, 
the name 
I want to erase, 
for tomorrow.


2026年7月8日水曜日

ロンドンの 喧噪はなれ サセックス どうだいホームズ 蜂は元気か  // コナン・ドイル


■ 2026-07-08
ロンドンの 喧噪はなれ サセックス どうだいホームズ 蜂は元気か  // コナン・ドイル

Away from the hustle and bustle of London, 
in Sussex—
how's it going, Holmes?
 Are the bees doing well?

■ google 翻訳した。ふうむ。

2026年7月7日火曜日

時をかける少女、と、ラベンダー かおりにふっと かるくなる ゆめがうつつに ときをうつりて  遊水 2026-07-08

2026年の伝統的七夕(旧暦7月7日)は8月19日
■ きのうは、7/6 というコトで



■ 筒井康隆の、時をかける少女、について見た。
■ 短歌にすると

ジャスミンの 香りにふっと 軽くなる 夢がうつつに 時を移りて  遊水
ラベンダー 香りにふっと 軽くなる 夢がうつつに 時を移りて   遊水
うたた寝に 恋しき人を 見てしより 夢てふものは 頼みそめてき  小町

■ 文字数で、ジャスミンにしてみたが、やはり、ラベンダーの方がいいか。


2026年7月4日土曜日

めちゃやばい、と、だいじょうぶの歌

■ 2026-07-02
■ 「俺」でなくとも「私」でもいい。
■ 下の句を、元の作者を明確にして、百人一首とか、古典に求めて、つけなさい。
■ 例えば、柿本人麻呂、他、・・・

めちゃやばい 私のきもち ここにある 長々しき夜を ひとりかもねん
めちゃやばい 私のきもち ここにある 恋に朽ちなん 名こそ惜しけれ
めちゃやばい 私のきもち ここにある 憂しと見し世ぞ 今は恋しき

■ まあ、適当にやってみる。

めちゃやばい 私のきもち ここにある ひとはこれをや 恋といふらむ

■ 2026-07-05 追記

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いにしえの うたがあるから だいじょうぶ あなたのきもち みつけられます

2026年7月1日水曜日

いくたびも 愛の深さを 尋ねたと あなたのきもち めちゃわかります

いくたびも雪の深さを尋ねけり 子規


■ 2026-07-01
■ 俳句なら 季語をいうけど だいじょうぶ 短歌にすれば いいだけのこと 

2026年6月28日日曜日

経緯メモ、と、斉藤史の歌。



■ 2026-06-28
■ 百人一首、百人秀歌、を参考に、昔の和歌に関心をもって、見てゆく中で、
■ 新撰・小倉百人一首も読むことになった。
■ 凡作ばかりで、人選もだめだ、としている。
■ 外すべきとする人の歌は分かるが、入れるべき人の歌は何なのか。
■ これは、塚本邦雄・王朝百首、に出てくるだろう、として注文した。
■ 入荷し取に行ったのは昨日だ。
■ 注文したとき、秀吟百趣、があったので、ついでに買った。
■ ここに斉藤史の歌も取り上げられていたので、「記憶の茂み」をパラパラめくった。
■ 何首かあったが、「記憶の茂み」にないものもある。


■ 私が記憶していた歌も、2首とりあげられていた。が、・・・
■ 塚本が取り上げたのは、「人が選んでいる歌以外」のようで、どうか。
■ 斉藤史自身が自作を語っているのはどこかにあるはずだ。
■ 深く追求したいわけではないが、一つは「「ひたくれない」の歌なのかもしれない。
■ 昨日、ついでに訊いたが、この言葉が含まれる題の本は出版元にも在庫はないようだ。
■ 「記憶の茂み」の p.206 にある。

死の側より照明せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも   史
If a light is cast
from the death shore, believe
the shore on this side
must look especially bright,
glowing resplendent crimson.

■ どのように輝くのか、一応  resplendent を画像検索すると野鳥のケツアールが出てきた。野鳥撮影しているので、面白いと思った。
■ グアテマラの国旗にもデザインされている
■ 2018-01-01 の日経新聞・春秋、には、もうひとつ、紹介されていた。

野の中にすがたゆたけき一樹あり風も月日も枝に抱きて

■ この歌も悪くはないが、次の歌の方が人間味があるかもしれない。

總身の花をゆるがす春の樹にこころ乱してわれは寄りゆく
Its entire body
swaying with all its blossoms,
the spring tree, throwing
my heart into confusion --
I am approaching it now.

■ 印象的だった歌は

過ぎてゆく日々のゆくへのさびしさやむかしの夏に鳴く法師蝉
O, the loneliness --
not knowing how all the days
go drifting way --
A cicada still chanting
in summers of long ago.

 

2026年6月26日金曜日

秀歌絶唱


■ 2026-06-26
■ 塚本邦雄・秀吟百趣をついでに買ったのは、2026-06-19のことで、読み込んではいない。
■ 発表されたのは昭和53年、1978年、昔のコトだ。
■ 「現代においてなほ朗々誦すべき秀歌絶唱ありや」ということに応えたものだったようだ。
■ 私の記憶にあるものは、目次を見ると、次の3句で、歌はなかった。
冬蜂の死にどころなく歩きけり  村上鬼城
朝顔や濁り初めたる市の空   杉田久女
外にも出よ触るるばかりに春の月  中村汀女
■ 作者を見れば、幾つか記憶にしている句歌もある。
■ 例えば、会津八一。全集など買い、一時期、親しんだ。いい歌はたくさんある。また、与謝野晶子

あせたる を ひと は よし とふ びんばくわ の ほとけ の くち は もゆ べき もの を 八一
四条橋 おしろい厚き 舞姫の 額ささやかに 打つあられかな  晶子

■ どちらも、今でも現実に体験できる。
■ 奈良に行ってもいいだろうし、京都に行ってもいいだろう
■ ただ、「びんばくわ」って何。これが困るだろう。


■ インターネットで探してもなかなか出てこないが、この頁にリンクした。
■ 「現代においてなほ朗々誦すべき秀歌絶唱ありや」この問いに、現代感覚でとらえ直しても良さそうだ。

2026年6月25日木曜日

日本とは 日本人とは 無意識に みそひともじを くちずさみ聞く  遊水

■ 2026-06-24
■ 「根っこのないものは弱いですよ」という評は、塚本邦雄については当てはまらないように思う。


■ 根っこがなければ、彼には「新撰・小倉百人一首」も「秀吟百趣」も書けなかっただろう。詩歌に対する思いが彼にこれらを書かせた。
■ 「秀吟百趣」を読んでいると、現代に近づくにつれ、生活環境が複雑になっているように感じられる。また風景写真のような対象がなくなっているのか、とも。掛詞などからも離れ、自分の歌を客観視しなくなっているのかもしれない。
■ 題詠や歌合せをしなくなったからだろう。いわば、勝手気ままというコトか。

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■ たまたま、「真っ赤な真実」を読んだものだから、言葉について「日本人とは」の歌が頭に浮かんだ。
■ 「真っ赤な真実」では、少女時代のアーニャについて、・・・

嘘をつくときのアーニャは、丸い目を見開いて
真っ直ぐ相手を見つめることに気付いた。

■ そして、次の文章で終わっている。

「でも、ルーマニアは、あなたが育った国でしょう」
「そういう狭い民族主義が、世界を不幸にするもとなのよ」
丸い栗色の瞳をさらに大きく見開いて真っ直ぐ私の目を見つめるアーニャは、誠実そのものという風情だった。

■ ・・・なるほど。
■ 米原真理にとって、「言葉」とは何だったのか。
■ まあ、いいか。


2026年6月21日日曜日

定家は どうしてふたつ 並べたか なんで分かるん 言うてへんのに


■ 2026-06-21
■ 塚本邦雄はすべて凡作だとしてそれぞれ選び直している。
■ 個々の歌をみれぼ、こっちの方がいい、ということも勿論あるかもしれない。
■ それは、秀作を選ぶという基準だとすれば、だけれど、必ずしも秀作でなくても、全体として面白ければいい、ともいえる。物語性だ。
■ 元々、勅撰和歌ではなく個人の歌集だからだ。選者として、判定者として決めること、そして、定家自身の歌が最終的に一番であればよい。
 
天徳四年の内裏歌合 村上天皇によって宮中清涼殿で行われた歌合
判者: 左大臣(藤原実頼)
こひすてふ我がなはまだきたちにけり人しれずこそおもひそめしか   壬生忠見
しのぶれどいろに出でにけり我がこひはものやおもふと人のとふまで  平兼盛

■ しのぶれど、の勝とされていた。
■ しかし、定家は自分が判者であれば、天皇に忖度することなく、こひすてふ、の方を選んだ、というコトを暗に示しているように思われる。そうでなければ、既に決まっているものを、ことさらとりあげて、並べる必要はない。
■ 「我が恋」を本当に「忍」のであれば「しのぶれど」といかにも自分は「恋」をしている、とひけらかすようなことはしないだろう。
■ 塚本邦雄は「私には負けた忠見の歌の方が悲しみを湛えた調べもあり、格段と優れているやうに見える」としている。
■ 以前も書いた。




2026年6月20日土曜日

白い手紙、「白」は「白旗」を意味していたのかな、と思う。2026-06-27 リンク追加。

「父を通じて親交があった青年将校の多くが刑死し、父も事件に連座して禁固5年となる」


■ 2026-06-20
■ 昨日、紀伊国屋に行ったのは、塚本邦雄の王朝百首、を読みたかったからだが、なかったので、注文した。ついでに、秀吟百趣、を買ってパラパラ読みしていると、斉藤史の歌も取り上げられていた。
■ 帰宅後、ジェイムズ・カーカップ「記憶の茂み」を開いて見ると、最初の歌が、これだった。

With arrival of
the white letter, tomorrow
will surely turn to
spring -- so I wait, and meanwhile
polish my windows' frail glass.
  • 白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう  史
■ 英文を書き留め、短歌は見ずに自分で短歌にできるか、というトキのひとつだった。
■ そのころ、なぜ、white letter なのか分からなかった。
■ 「白」は何を意味するのか
■ 今回読んで、「白」は「白旗」を意味していたのかな、と思う。
■ 宮中歌会始の召人、のコトを考え合わせると
■ 要するに、敵が折れてきた、と。
■ 思いつきだが、この歌は1940年31歳のときの歌集「魚歌」の歌で、時期が合わない。
■ というコトで、「白い手紙」は今もってわからない。
■ 2026-06-27
■ リンク追加。





2026年6月7日日曜日

衝撃的な出会いとは


■ 2026-06-07
■ 日本経済新聞・土曜日・短歌
■ 新聞を先に見た妻がザンビアの人の短歌が出てたよ、という。
■ でも、蜜蜂と衝撃的な出会いと何の関係があるのかしらね。
  • ザンビアがどこにあるのか知らないしそんな所に出会いはあるの
■ 短歌にすればこんな感じか。
■ そんなこと言ってないと抗議する妻。
■ 出会いは何との出会いか、人との出会いだけではないでしょ、と私。






2026年6月4日木曜日

前衛、と、題詠、2026-06-07,-08 追記。

■ 2026-06-04
■ 先日、日本経済新聞・夕刊に、馬場あき子の記事があった。
「短歌でいえば、今の歌人は塚本邦雄や葛原妙子のような前衛を自分たちの先祖だと思ってますよね。それもいいけど、・・・根っこのないものは弱いですよ」などとあった。
■ それで、高野公彦編「現代の短歌」を見たが、よく分からなかった。
■ たとえば、最近見た「歌集 ゆふすげ 美智子」では、すべての歌に「題」が付けられている。要するに、題詠だ。
■ 前衛と言われる歌人の歌は、何についての歌なのかが分かれば、あるいは、分かるのかもしれない。
■ なぜ、その歌があるのか、なぜ詠わねばならないのか、何を伝えよう、何を訴えようとしているのか、何が何やら分からん。言葉は伝えるためにある、と思うが、言葉自体を否定しているのか、分からん。
■ 塚本邦雄は、新選・小倉百人一首で、考え方は、まあ分かる。
■ 前衛など意識したことはないけど、馬場のいう「理屈でなく楽しいことを、面白がる者が世の中を前に進めるの」、これはこれでいいけど、彼女の歌に面白さを、あまり感じられないので、どんなもんかと思う。
■ 次の著作を比較すれば、塚本邦雄の方が優れているし、「根っこのないものは弱いですよ」という評は当たらない。根っこは、むしろありすぎだ。
  1. 塚本邦雄・新選・小倉百人一首
  2. 馬場あき子・馬場あき子の「百人一首」
■ ついでながら、塚本は百人一首は凡作ばかりだ、として、いいと思われる歌を上げているが、置き換えて、全体として、百人一首が成り立つのか、個々の歌が必ずしもその人の最高の作でなくても、定家はその歌を取り上げたかったと考えられる。
■ 百人秀歌の柿本人麻呂と入道前太政大臣の歌、要するに、実質的な最初と最後の歌は

  足引きの山鳥の尾のしだりおの
ながながし夜をひとりかもねん

  花さそふあらしの庭の雪ならで
ふり行くものは我身なりけり

■ 定家にとって、どちらも上の句は不要で、下の句を取り上げたかった。と考えればよいだろう。
■ それが彼の気持ちだった。
■ このような意味で「百人秀歌」を研究したらいいだろう。