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「瀬音」に学ぶ
短歌表現と俳句表現の違いは何か、詩の形と詩の心の関係に関心がある。
代表的な現代歌人の一人、美智子皇后の歌集「瀬音」を例に、短歌と俳句の表現の違いを考える。
○ きさらぎの御堂の春の言触の紙椿はも僧房に咲く
そうぼうの かみのつばきや にがつどう
○ 雪明る夕ぐれの部屋ものみなの優しき影を持ちて靜もる
ゆきあかり もののかげみな やわらかき
○ この国に住むうれしさよゆたかなる冬の日向に立ちて思へば
このくにに すんでうれしき ひなたぼこ
○ おぼろなる月の夜の海に来て河口に到る白魚あらむ
しらうおの かこうにあるや おぼろづき
○ かの時に我がとらざりし分去れの片への道はいづこ行きけむ 2022-01-07訂正
わかれみち むこうのみちは どんなあき
○ 彼岸花咲ける間の道をゆく行き極まれば母に会うらし
ひがんばな ゆききわまれば ははのこえ
このように短歌の心を要約し俳句形式にしても本質的な部分は表現できそうだ。俳句の場合は、文字数が少ないので、読む人に依存し解釈や想像にまかせるところがあり、作者より深く読む人もいるので、句の方が簡潔でよい面もある。
書では臨書といって手習いをする。形を真似、筆の運びを学び文字を知る。詩歌でも手本があれば学び易い。俳句を俳句の勉強のための手本とするには難しすぎるが短歌の心を要約するのがひとつの方法だ。
○ 彼岸花咲ける間の道をゆく行き極まれば母に会うらし
この歌の「……母に会うらし」の「らし」は伝聞を意味し、伝聞とそれに共感した心が主題だが、歌にするという行為は醒めていて、「らし」と表現する心理には願望と感情のほかに疑問と理知がある。
この歌の重要な言葉は、まず、「彼岸花」「母」の二つで、加えて「行き極まる」がある。
俳句は「らし」としないで躊躇せず断定的に表現する。五・七・五の十七文字故、主要な言葉が決まれば、あとは組み合わせ方である。例えば
ひがんばな ゆききわまれば ははのこえ
ひがんばな ゆききわまりて ははのかお
「ゆききわまる」を別の言葉に変えて、例えば
ひがんばな さくみちのはて ははのこえ
更に省略して
ひがんばな ああおかあさん おかあさん
これは十七文字だが、いわゆる俳句ではない。
「らし」とあるので作者自身が行き詰まってどうしようもない状態だったわけではなく、何かに突き当たった時、即ち、「行き極まれば」母ならどんな答えを出しただろうと思います、心の支えが母でした、ということを聞き自分もそうだなと共感している。そういう見方をすれば、彼岸花が亡き人を思い出させる花だったということだろうが、人により必ずしも「彼岸花」ばかりでなく他の花のこともあるだろうから、「行き極まれば」が一番重要な言葉かもしれない。
現代短歌については断定的に言えないが、読み手に投げ渡す俳句と違い、思いを詠みあげるのが歌であろう。改めて下の句を付け、短歌形式に戻すとそれが分かる。
わかれみち むこうのみちは どんなあき ふとたちどまる ときぞかなしき
ひがんばな ゆききわまれば ははのこえ あいたきものと あゆみゆくかな
落ち着きがでる。歌は下の句に重点があり、切れていれば付け足しになるので、次の歌のように、AからBに、作り直すと重点が下に移り、より短歌らしくなる。
A ひとつぶの くわのみにある おもさかな きみがわがてに のせしくわのみ
B われのてに きみがのせたる ひとつぶの くわのみにある おもさなるかな
「要約」「肉付け」「再構成」、こうした作業で定まる言葉の中に心がある。元の「瀬音」の歌は、
○ てのひらに君のせましし桑の実のその一粒に重みのありて
であった。
○ おぼろなる月の夜の海に来て河口に到る白魚あらむ
しらうおの かこうにあるや おぼろづき
これらの句歌から芝居を思い出す人がいるかもしれない。
月も朧に白魚の篝もかすむ春の空……
この「三人吉三巴白波」の大川端の出会いの場面での、女装の泥棒、「お嬢」のせりふには、篝火のあかりに集まる白魚をとる漁のさまや、あるいは、翌日の食卓にのぼる庶民的生活感を知ることができる。朧月から白魚を連想するという、いわば懐かしい季節感の表れ故、些細な約束事にこだわることはないが、俳句では、白魚も朧月も春の季語で、季重なりとなり、嫌い、のびやかさが制約される。その点、歌の場合は自由に想いを詠むことができる。俳句では、白魚も朧月も春の季語で、季重なりとなる。しかし、
○ 訪ねては親しみゆかむこの町の小径のかなた伊豆の海見ゆ
このみちの かなたにいずの なつのうみ おきのこじまに しろきなみよす
この場合、「伊豆の海」と「沖の小島」が私の記憶のどこかにあったようだ。俳句を作るかたわら歌も作ってきたが、歌の方に心が移り再び俳句と思いながら、歌に心がひかれるのはこうした記憶の断片の作用かもしれない。
読み返して、金槐和歌集に当たってみなければと思った。
箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄るみゆ
実朝の「伊豆の海や」は「や」が効いている。字余りだが「や」におおらかさがある。箱根路を登りつめて、ああ海だと思わず潮の香を胸いっぱい吸いこむような時間がある。この一字を変えても元の歌ではない。
それぞれ歌風があり同じに詠むことはできず、完全に知ることはできないが、同じ主題で歌に作ることでいくらかその人の気持ちに近づけるのではないかと思う。
言葉のもつリズムや響きや流れはその時々の人の受け止め方の違いで、人々の間で読み継がれてゆくとき少しずつ形を変えてゆく。同じ言葉を詠み込んで返したり、同じ言葉や形を用い、別の意味や新しい見方の歌にしたり、有名な歌をふまえて歌を作ることがある。そうしたあり方が和歌の歴史であった。
俳句では、例をあげにくいが、
荒海や七夕まつる過疎の村
という句があったとする。「荒海や」から「荒海や佐渡によこたふ天の河」を即座に思い浮かべるだろうから、一応、本歌どりである。しかし、今、俳句では季語を共有するが、類句は嫌うので、本歌どり的な表現もされなくなるのではないかと思う。
言葉を使って自分の思いを歌に作るだけでなく、長い年月の間に込められた人々の思いを言葉の中に見出し自分の心に合わせて人に伝えようとするのが詩歌であろう。そうした意味から類句を恐れず新奇を求めず、ことばを共有し大切にしたいものである。
二つの句を組み合わせ三十一文字にしてみる。例えば、
荒海や
(佐渡によこたふ 天の河) 七夕まつる 過疎の村(人)
この歌の省略形が先の句だつた。天の川がくっきり見える空だが、浪は高い。江戸時代の佐渡は金山・流人の島、隔絶された島であった。
荒海や
七夕まつる 過疎の村 佐渡によこたふ 天の河見ゆ
俳句は分かっていることは表現しないので「見ゆ」は不用であるが、こうして上下を逆にし、三十一文字にするため、「見ゆ」を付け加えると、うれしさや願いが感じられるので、芭蕉の句より、この歌を選びたい。
夏草や兵もの共が夢の跡
閑けさや岩にしみいる蝉の声
体言止めの「切れ」は読む者に投げ与えられ重く感じるが、これらはさほど重くない。
夏草や
兵もの共が 夢の跡 衣川波 静かなりけり
閑けさや
岩にしみ入る 蝉の声 石に苔むす 僧坊の跡
三十一文字にすると、元の俳句を超えるものではないが、また別の想いが得られる。
小学六年の夏、四国から秋田に移り、仙台、山形、米沢に住んだ。その間、金色堂や山寺に行った。山の形、空の色、土地の訛り等、想い出がふつふつ胸に沸き起こる。
夏草やしずかなりけり衣川
閑けさや石に苔むす坊の跡
荒海や七夕まつる過疎の村
「奥の細道」を辿ることがあった時、どんな思いを抱くか分からないが、幾つか句や歌を詠めそうな気がする。
瀬音の歌と芭蕉の句を例にあげたが、歌と俳句は相互に意を通じ易く、短歌から俳句、俳句から短歌と形を変えることにより言葉と心のあり方をより知ることになる。
俳句の勉強のために要約し、幾つかは簡潔に表現できたが、俳句向きの内容とそうでないものがある。また、意味だけではなく、品位や影、綾、揺れ、遊びなども短歌の重要な要素であり、断定的に表現し、また、そうせざるを得ないのが俳句の長所であり欠点である。例えば、
○ さくらもちその香りよく包みいる柔らかき葉も共にはみけり
かおりよき はごとくいけり さくらもち
「瀬音」の歌を手本として/こまやかに みそひともじに うたいたる そのみこころを てほんとなして/出来る限り句にした。句47、歌26であった。俳句にとどまったものは割愛するが、更に、短歌形式にしたものは全てあげ、後の参考にしたい。いつの日か、ここで知り得た心を自分の歌にすることができればと思う。
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たわむれに ふれてみんかな ねむりぐさ あしたのつちに いでしばかりの
わかきひの ブーゲンビリア うみあおし はるばるゆきし ねったいのうみ
あかきバラ はさみのあとの あたらしく かおりゆたかに へやにみちけり
なんぶてつ さびてきよらに かぜのおと おもいでのやま おもいでのかわ
さざんかや うたなつかしき おちばたき つくりしひとの いまはよになく
□
しゅんでいや くさのはつはつ どてにいず こころたのしく あゆみゆくかな
たんぽぽの わたげをふいて あそびける のべなつかしき ひびははるかに
セキレイの ふゆのみそのに あそびたる そのさまつげる ひとはいまさず
おとこのこ いわいたるらん こいのぼり およぐさつきの そらのさやけく
ひをふきし やましずまりて とりわたる つちにうもれし いえいえのうえ
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さとにでて てぶくろかいし きつねのこ ゆきふるよいの ははのおはなし
そかいちに きりのつつばな ひろいけり いくさにまける こともしらずに
からまつの みとせとわざる あのこみち みみにのこるは こうげんのかぜ
でんちゅうと わがかげぼうし ほそながく いずこのまちか おもいだせずに
あおばして さやけきみねを ふたりゆく てをとりあって いわをこえゆく
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いまいちど らっきょうのはな さかるころ おとなうときの あるをねがいて
われもまた おうみのうみの ほとりにて おもいあふれて うたをよむかな
とちもちを きみのかたえに はみにけり たんごのひとの つきしとちもち
しものあさ のらねこまえを よこぎりぬ きらきらしろき かれしばのうえ
ひさいちに ひななきせっく めぐりきて ひともしごろの かなしかりけり
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かげろうに かなたのみどり ゆらぐかな わがかげもまた ゆらぎみゆらん
もろともに れんげつまんと いいしきみ きみなきはるの またもめぐりて