「ろ」について

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付録、「ろ」について

 
 
 

 悲しきろかも/尊きろかも/乏しきろかも/と、万葉に使われているようだ。「ろ」を金田一京助の古語辞典で引くと、「~かもの形で用いられ感動を表す。処女(おとめ)がともは羨しきろかも」とあるが、誰がどのように感動しているのか、作者なのか、おとめなのか。歌を作る者としては腑に落ちない。一応万葉集に当たってみた。「藤原の大宮仕へ生れ付くや娘子がともは羨しきろかも」、注に、ロは接尾語とある。ますます分からない

 会津八一は「……あさのひかりの ともしきろかも」としている。私は次の歌を作った。

 

       奈良・興福寺

    せんねんの ながきつきひや はるのゆき じゅうだいでしの さみしきろかも

 

「ろ」は、(き)ろ(かも)と「き」に続けて用いられる。この歌の場合、漢字で書けば「寂しき色かも」であり、発音するとき、すぐ上の「き」の影響で「い」が省略され「いろ」の「ろ」が残った形である。「いろ」は色彩の色でなく、辞書には/顔色、ようす/種類、しな/情趣、味わい/やさしさ、情け/……とあり、「風情」といつたところか。今風に言えば「カンジ」である。従って、「さみしきろかも」は、例えば、「さみしいかんじだ、なあ」という意味になる。「なあ」は「かも」にあたり、更に「かも」の部分を強調すれば「さみしいかんじだ、(そうみえるが)さみしくないのかなあ」といったところか。

 「悲しき」としないで「悲しい」とするので、「ろ」の意味も分からなくなったのだろうが、失われたわけではない。言葉の中に宿っている。気付かないだけだ。

 単に「ろ」だけでなく、歌として、文字としてでなく、ことばとして、声を出して読めば、ことばの中に宿っているこころが生き返り、それに気付くのではないかと思う。「読書百遍意自ずから通ず」である。

 今、ことばが溢れている。これだけ人がいるのだから当然だ。そして、俺達には関係ない、ということかもしれない。ただ、自分としては、古いことばの中にもこころを見つけることができるし、それでこころ豊かになると思う。