漢詩に遊ぶ4

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漢詩に遊ぶ4
 
九首



ことのはの ひとつひとつに こめられし
 
うたのこころを しるぞたのしき



まえがき

 
 2000-09-30、大阪・高島屋に「日本画家・堂本印象の世界展」を見に行った日、萬字屋書店で古本を一冊買った。昭和四十七年十月十日・明治書院発行、安藤孝行(白雲山人)著「漢詩唱和」。漢詩及び六百二首の短歌と序文、鑑賞の栞、索引付きで422頁。以前、私も漢詩を素材に俳句や四行詩を作っていたので目に付いた。

 展覧会場に、堂本が晩年描いた抽象画があった。京都・西芳寺の襖絵「遍界芳彩」だ。/ああこれは いいえだなあと ながめれば うしろのひとが わからんなあと/いろんな人がいる。絵に限らず、対象をどのようにとらえるかだ。対象として漢詩があるとき、人はどのような情景を思い浮かべ、その対象から得た主題をどう歌や句にするのか。

 「漢詩唱和」には私が素材にした詩が幾つもある。俳句から少し離れ、短歌形式で「緑の記録」や「小さな旅の記録」を書いているので、ちょうどよい出会いかもしれない。短歌と俳句あるいは四行詩を、比較し、詩の形式とは何かについて考えられたらと思い、コンピューターに打ちこみ印刷して眺め、数えた。

    俳句   23

    四行詩   9

であった。数があるので作品の良否に左右されず形式による違いを見ることが出来るかもしれない。

 安藤(白雲)は序に「土岐善麿、佐藤春夫等の試みる意譯あり。   ………  

ここに至りて唐詩の和譯はほぼ完成の域に達したるが如し。漢詩讀み下し文が全く韻を喪失せるに比し、やまとうたの律を以ってこれにかへ詩的効果を補ひえたり。唯うらむらくは譯詩梢冗漫に流れたり。」

としている。彼の言葉の「うらむらくは……」がそのまま彼の短歌についても当てはまりそうだ。

「いやしくも異國の詩を譯さむとする限り原詩の趣向を主眼とすべく、末節の辞句に泥むべからず。原詩の韻律は一たびこれを破壊すれば、よろしく自國の律を以ってこれに替えへんのみ。」

 必ずしもこの考え通りに歌を詠めなかったとみえる。絶句では起承転結といい、普通「結」に主題がある。短歌では七七の部分か。しかし、こだわることはない。例えば、次の白雲の歌のように、原詩の言葉から少し離れ、印象を伸びやかに詠むとよい。

    たそがるる海おしわけて流れいる濁れる河の限りしらずも  白雲

同じ詩を会津八一は

    うみにして なおながれゆく おほかわの かぎりしらずも くるるたかどの

としている。元の詩と。並べ置いて、季節はいつか考えた。同じ場所、同じ時刻に立ったとき何を感じ、どのような歌になるだろう。

 実際現場に立つと、あるいはもう少し違った歌になるかもしれないが、次の歌を作った。

  

やまのはに いりひうすれて みかえれば
かなたのうみに ながれいるかな

 

    白日依山盡 黄河入海流

    欲窮千里目 更上一層樓    登鸛雀樓 王之渙

 

 

はるのやま ぽっかりつきの いでたれば
とりおどろいて なきさわぐかな

 

    人閒桂花落 夜靜春山空

    月出驚山鳥 時鳴春澗中    鳥鳴■  王維

 

 

ゆくかわの ながれはたえず しゅんじゅうの
うつろうときの さみしかりけり

 

    日々河邊見水流 傷春未巳復悲秋

    山中舊宅無人住 來往風塵共白髪    贈殷亮  戴叔倫


ゆったりと ながれるかわに とりしろく
つらつらつばき ふるさとのやま

 

    江碧鳥逾白 山青花欲然

    今春看又過 何日是歸年    絶句  杜甫

 

 

さんがあり ゆうひよ くもよ みささぎよ
こころのきずを なににいやさん

 

    漢国山河在 秦陵草樹深

    暮雲千里色 無處不傷心    題慈恩塔 荊叔

 

 

いちはやく わたりどりみて やどのあさ
こずえにかぜの しょうしょうとふく

 

    何處秋風至 蕭蕭送雁群

    朝來入庭樹 孤客最先聞    秋風引  劉禹錫


まよなかの ましろきしもか げっこうか
おもいおこすは ふるさとのやま

 

    牀前看月光 疑是地上霜

    擧頭望山月 低頭思故鄕    靜夜思  李白

 

 

はなざかり さしつさされつ ほろようた
あすはあなたの ことがききたい

ああようた またあすこいや はなをみに

 

    兩人對酌山花開 一杯一杯復一杯

    我酔欲眠卿且去 明朝有意抱琴來    山中與幽人對酌  李白

 

 

おいたれば やよいのそらも いくたびぞ
さけをのむべし こころゆくまで

 

    二月已破三月來 漸老逢春能幾回

    莫思身外無窮事 且尽生前有限杯    漫興  杜甫

 
 
いにしえの いこくのひとの うたよみて
まぶたにうかぶ しらさぎのさま

しらさぎの しもふるごとく おりたちぬ

 

    白鷺下秋水 孤飛如墜霜

    心閒且未去 獨立沙洲傍    白鷺■  李白





あとがき

 

  ○ 秋風はまず旅人を吹くらしき梢さやかにわたるかりがね

これは白雲の歌になっている。「かりがね」は「かりかな」でよいかと思う。

 また彼は/千里鶯啼緑映紅 水村山郭酒旗風 南朝四百八十寺 多少樓臺煙雨中/これを訳し、次の歌にしている。

  ○ うぐいすや花も柳も野も里も寺も茶店もただ春の雨   白雲

 うまく並べ立てたものである。この軽やかさには感心した。漢詩臭が全くなく日本的だ。あっさりしたところが実にいい。

 今まで俳句や四行詩を作ったが、今回は漢詩十篇を元に歌を作った。まだ硬い。またいつか作り直し水彩画のような歌ができればよいがと思う。

 詩歌は詩人だけのものではなく、多くの人が自分の言葉で作り、見せ合い、時には競い時には学び合う、そんなものでありたい。(狂歌も含め)和歌や俳句(あるいは川柳)、また、都都逸その他、我々はそんな短い定型詩の文化を持っている。それをもっと意識化し、楽しみ、そして結果的に受け継いでゆけたらよいと思う。