ひさしぶり うららのはるに なぜいそぐねころびさけを のもうじゃないか
月見に一杯花見に一杯
詩、俳句、短歌、他
ひさしぶり うららのはるに なぜいそぐねころびさけを のもうじゃないか
月見に一杯花見に一杯
是は心詞かけたる所なきゆえ 追記 2026-03-29、03-30、-31、を
歌は、「心」と「言葉」が評価の基準、に。
たつたがわ、を漢字で書くと川という文字があるだろうだからと言って、river のことではない関取が、昔いたんだkawa
gawa
分かるかな、この辺が日本語的なのだ・・・その関取がな、ちはや、という花魁を見初めたんだが、関取なんて嫌だと拒否されたならば、妹の、かみよ、でもいい、と交渉したんだがなおねさまがいやなものは、わちきもいやでありんす、とちはや、にふられかみよ、もいうことをきかないかみよも、きかず、だへええ、・・・、???それで、すっかり、世の中が嫌になってな、女断ちをして精進しても、こんなことなら相撲取りなんか、もうやめだ、と故郷に帰ったんだ父親の豆腐屋を引き継ぎ、暮らしていたところ店先に女乞食が来て、なにも食べてないので、せめて、おからでもください、というどこかで見た顔だが、じっとみると、ちはや、だお、お前は千早だな俺を振った、千早じゃないかお前なんかにおからだって、くれてやるものか・・・からくれないにというわけだ、分かるかなえ、?、なに、・・・、そういうことですかいと、話はつづき、拒否された、ちはや、は、とうとう店先の井戸に身を投げてしまうどぼーん、となへええ、そういうことだったんですかぁ、・・・そういうことだ、わかるかな井戸の水に身を投げた、つまりみずくぐるとは、だな漢字で書くと、水潜る、だ。と、ここまで話が進み、いい加減だなあ、と思う人もいるだろう。
しかし、「括り染め」ではないぞ、と、落語家は考えたのだ。エライ!。知ったかぶりをするご隠居さんの、訊かれて応えなければ、威厳が保てない立場に、ときどき、子供の宿題の答えが、分からないこともある身の人としては、親近感さえ感じるので、多少の同情を寄せながらも、いい加減さにあきれ、聞き入るのだろう。まあ、うちに子供はいないけど。
この落語が作られた当時は、手書きの文字の札が一般的で、「千早振る神代もきかす」と書かれたのも多かった。いくつかの文字で書かれているが、最初は、
千早振る
と書かれているのが多い。なので、こんな話を思いついたのだ。そのまま、花魁の名前に変えた話にしただけだが、誰でも思いつくわけではない。零落した公家の手内職のカルタを見て、ろくに解釈もできない貴族たちを、「振る」とはなんだ、それが、みやび、かと疑問をもって、明快に解釈できないにしても、何かがおかしい、という庶民心をネタに、ともに笑いとばそうというところは、噺家もたいしたものである。「いつも忙しいと言って、ちゃんと教えてくれない」と言う子供の言葉を耳に残して、ご隠居さんのところに教えを請いにきたのだから、ちょっとでも疑問に思うことは、ちゃんと確認しておかないといけないのだ。ということで、いよいよ最終段階の「オチ」にいたるのだ。
分かるかな。 ・・・、・・・だいたい、わかったんですがね、最後の、とは、とはなんですかいなに、それぐらいまけとけいやいや、そうはいきません、みそひともじの、ふたもじですから、まけられませんなに、ふうむ、おまえのいうことは、せいろんだ。「ふたもじ」でも、おろそかにはできない。してはならない。
でしょ、 で、なんですかい、とは、とはせかすではない、と、ここで、いっぷく。
とは、とは、だなあ、・・・なんですか、とは、とはとは、とは、千早の本名だ。
からぶり さんしん ばったー あうと
空振り三振
furuburu
ちはやもはや
(人の世にあってはもちろんのこと)不思議なことのあった神代にも聞いたことがない。竜田川にまっ赤な色に紅葉がちりばめ、その下を水がくぐって流れるということは。
歌の心は千早ふるは神といふ枕詞なり。神代には様々の怪しき事共ありしと聞くに、今この竜田川の絵を見れば一面に赤き色の中より青き水がくくると見ゆる、このように怪しき事は神代にもありしとは聞かずといふコトなり。
歌人
竜田川の秋、紅葉はからくれないの千入の色だ。川一面の散りもみじは、流れのままに広がり、時に細りもして絞りの染めの美しさ。川がもみじの絞り染めとは、神代の古事にさえ聞いてはおらぬ。
語注 「ちはやふる」・・・勢いが激しいの意で、「神」の枕詞。
詩人
聞いたこと ないぞちはやぶる 神々の時代にだってこの龍田川の川のみずが真っ赤な紅葉で唐の紅色に括り染めされるなんてことは
小説家
竜田川の水の面まるで紅のしぼり染め紅葉の錦の唐くれない神代にもこんな美しさがあったとは聞いたこともないなんとみごとな美しさ
① 枕詞② めずらしい事のあった神代でも聞いた事がない。③~⑤ 竜田川で美しい紅色に水をくくり染めにするとは。紅葉の流れるのを水をくくり染めに染めたものものと見立てた。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
世の中にたえて桜のなかりせば人の心はのどけからまし
世の中に クレオパトラの なかりせば 男の心 のどけからまし 遊水
・・・なかりせばのどけからまし
「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら歴史は変わっていた」(パスカル)
周知のとおり、二条の后が入内される前、業平との間には熱烈な恋愛関係があった。入内された後までも、業平は后のことを忘れることが出来なかったらしいから、題詠にことよせてて、自分の情熱を水くぐる紅葉の紅にたとえたのかもしれない。
・・・次の二首は、私が愛唱して止まぬ歌である。初めの歌は、高子と会った後、彼女はどこかに連れ去られ、一年ばかり経って、彼女が住んでいたところを訪ねた。折しも月が出て、梅の花が匂っていたので、懐旧の情たえがたく、板敷きに伏して一夜を明かした。そのときに詠んだ歌である。
月やあらぬ春はむかしの春ならぬわが身一つはもとの身にして世のなかにたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
おもかげのかすめる月ぞやどりける春や昔の袖の涙に 藤原俊成女 新古今集 恋二
おお なんと見事な紅葉神代の昔も 聞きませぬ竜田川の水は真紅からくれないの しぼり染め
在原業平が思っていた神代は、千早古だから、千年の昔で、今から、ざっと二千年まえになる。今と同じように紅葉が美しかったと考えて無理はない。紅葉は日本の自然現象であって、千年経とうが、二千年経とうが、気候は多少変動するにしても、 昔から今までの二千年で、基本的には変わらない。
このような観点から、「千早古」の歌を見直すのもいいんじゃないの、ということになる。
「水くくる」これを「くくり染め」だと解釈したのは、賀茂真淵?だそうだが、これはごく普通にみて疑問。賀茂真淵は、頭でっかちの、奇をてらう癖があったような人で、人と違うことをいい、他人の注意を引くかのようだ。真淵でなく、契沖であろうと、誰が言い出したか、誰でもいいが、本質的に、糸で括った部分は染まらず、白く残る。どんな形で残るのかは、絞り染めした布を見れば分かる。到底、紅葉の葉には見えない。又「から紅」に染めるということは、全体としては赤い布になる。赤い川に白い紅葉、ということになる。赤いのは紅葉でしょ。それが白なら、何、これ、ということだ。素朴に、考えることなく、見れば分かる、裸の王様だ。なので「括り初め」とか「絞り染め」ではない。
そして、一番重要なのは、作者の在原業平の気持ちはどうだったのか。歌は心だ。古今和歌集・巻第五・秋歌下の「そせい」の歌の前の詞書にある状況だった。
二条の后の東宮のみやす所と申しける時に、御屏風に竜田川にもみぢ流れたるかたをかけりけるを題にてよめる
このように屏風絵を見て二人が詠んだ。その屏風の持ち主は、「二条の后」、即ち、業平が恋した、というか、愛した女だった。その人に贈る歌に、自分の心を託さないはずはない。普通。恋をしたことのある、知性ある人ならその心境はよく分かるだろう。川が真っ赤に染まるほどに浮いた一面の紅葉は、当然、二条の后、即ち、藤原高子であり、
彼女への思いを、その真紅の紅葉の下を流れる川に託した、
と解するのが、ごく常識的のように思われる。出だしを、「千早古 神世も聞かず」、このように漢字で書けば、なんら問題はなかったのに、皆さんは困惑したようだ。
とにかく、業平は、いままで歴史上もないほどの美しい紅葉だ、と思ったのだ。業平の時代にはなかったが、今は、絶世の美女、という言葉がある。「絶世」を言い換えれば「神世も聞かず」となる。逆に「神世も聞かず」は「絶世の」だ。
その美しい紅葉のような「あなた」。
竜田川、即ち、私の上に浮かんでいる。言い換えれば川は紅葉の下を流れている。当然、「括る」ではない。「潜る」という表現になる。もみじ、は色々な木や草で見られる現象で、木の種類や場所によって、黄色や赤に変化する。例えば、蔵王のような場所では黄色だ。あるいは、銀杏の場合も黄色だ。紅葉というように「くれない」という文字を使っている、葉が赤くなる木が一般的な「もみじ」だ。色づきに一番影響するのは気象条件で、急激に冷えこんだり、谷川の霧の発生具合など、温度や湿度、あるいは日照条件が紅葉に影響する。植物学的、化学現象的な説明は専門家が解明していることだろう。どのような条件で赤くなるかはインターネットで検索すれば出てくるだろう。地形とか気象条件に基本的な変化がなければ、毎年同じ場所で発生する日本列島における、自然現象だととらえてよい。千年、二千年の昔、即ち、在原業平が言う、神代の昔から変わることはない、従って、「神代も聞かず」という珍しい現象ではない。しかし、業平は、「神代も聞かず」と思ったのだ。このこと自体を否定してもしようがない。業平は思ったのだ。そう表現したかった。
繰り返すようだが、もう一度書いてみよう。この屏風の絵について歌を詠め、と言われて見ると、描かれているのは、紅葉と川だ。屏風絵の紅葉を美しい、と、即ち、画家を褒めたところで、何の意味も面白くもない。題詠は、それに関してどう思うかなので、画家の技量を褒めろといるわけではない。この屏風絵を見てどう感じるかのかだ。
この頃の歌は、単に自然の景を読むのではなく、詠み人の心を詠み込んでいる。ただきれいだ、などと済ますようでは、恋愛などできない。神代は、業平からみて千年の昔のことだ、古い時代の遠い昔のこと。長い歴史の中でも、特に、この紅葉は美しい。こんなに美しい紅葉の話は聞いたこともないと、表現したかったわけだ。美しい紅葉は、美しい人、を表している。一面に美しい紅葉を浮かべる川は昔からずっと変わりなく流れ続けている。私の心もこの流れのように変わりない。あなたのことを思っている。と、まあ、意味的には、こんな感じで業平は歌に詠んだのだろう。
しかし、これではいかにも散文的だ。 業平は詩的言葉で表現した。
現代では、普通の人は、絶世、という言葉から、絶世の美女、を思い浮かべるだろう。から紅、即ち、真紅の紅葉は女性。もちろん、あなたのことです、と公の場では言葉には出せないものの、在原業平は藤原高子の顔を見ながら、ちはやふる・・・と詠んだのだった。歌は心だ。こころを歌に詠む、それが当時の歌を評価する基準になる。まあ、「絶世の」などと作り変えなくても、単に、表記をただすだけで済むことだ。
現代の人は、おそらく、こんな歌は詠めないだろう。それを定家は取り上げた。伊勢物語にある歌をそのまま取り上げただけだが、定家は評価した。なぜ評価したのか現代人には分からなくなった。学者が変な解釈をしたのが一因だろう。人は、素直にその解釈を信じたのだ。要するに、この「ちはやふる」の歌は、心も言葉も欠けた所がない。即ち、完璧で、この歌で百人一首の全体像が把握できる、としている人がいた。
千年、二千年昔、即ち、在原業平がいう神代の昔から紅葉は変わることはない。現代的にいうならば「絶世の」即ち、この世で一番ということを業平は表現している。「からくれない」の色の美しさをいい、間接的に、誰よりも、あなたは美しい、との誉め言葉として詠んだ。そして、いつまでも流れ続けている川のように、私はあなたのことを思っている、と。こうしたことを読み取っていたので、昔は評価され、選ばれ、伊勢物語に記録され、定家によって取り上げられた、と思われる。
(人の世にあってはもちろんのこと)不思議なことのあった神代にも聞いたことがない。竜田川にまっ赤な色に紅葉がちりばめ、その下を水がくぐって流れるということは。
世の中に クレオパトラの なかりせば 男の心 のどけからまし 遊水
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし
If Cleopatra did not exist in the world, men's hearts would be at peace.If there were no Cleopatra in the world, men's hearts would be at peace.
「ちはやふる」は「神」にかかる枕詞ではない。「ちはやふる神代」と詠まれている。
佐佐木信綱校訂・新訂・新古今和歌集・岩波文庫、1886ちはやぶる香椎の宮の綾杉は神のみそぎに立てるなりけり よみ人知らず夏目漱石は、この歌を知っていた。明治29年秋に香椎宮を訪れている。明治29年9月25日に子規に送り、正岡子規・選句集「承露盤」にある。
「神」を、菅原道真のように、祟り、の神ととらえると、雷のような「激しい」ことにもなる。
ちはやぶる chi-haya-buru の場合で、例えば、「破る」と解すると、「ちは・やぶる」となり「ちは」とは何か、となる。なんなのか、・・・
「神」ではなく「神代」にかかる言葉として用いなければ、誤解することになる。「千早古・神代」
If Cleopatra did not exist in the world, men's hearts would be at peace. どういう意味ですか
和夫さん、この英語の文は 直訳するとシンプルですが、
含まれているニュアンスはかなり深い表現です。
「もしクレオパトラという存在がいなかったら、男たちは心乱されることもなく、平穏でいられただろう」
つまり:
という意味になります。
クレオパトラは歴史上、
で知られ、
カエサルやアントニウスの運命を変えた女性として語られます。
そのため古くから文学では、
“一人の女性の魅力が世界を動かす”
という象徴として扱われてきました。
この文もその系譜にあります。
この文は単なる批判ではなく、
という 半ば賛美を含んだ皮肉 です。
もし和夫さんがこの文を
どの方向でもさらに深く掘り下げられます。
和夫さん、文学的に読むとなると、この一文は
**「クレオパトラ」という固有名詞を使った“寓意的・象徴的表現”**として理解するのが核心になります。
ここでは歴史上の人物というより、文学的記号としてのクレオパトラが働いています。
文学では、クレオパトラはしばしば
の象徴として扱われます。
つまり、この文は
「一人の女性の魅力が、男の心を揺さぶり、世界の秩序さえ乱す」
という古典的なモチーフを踏まえています。
これはギリシャ悲劇から中世文学、近代文学まで続く
**“ファム・ファタール(運命の女)”**の系譜です。
“If Cleopatra did not exist…”
という仮定法は、単なる条件ではなく、
を提示します。
文学的には、これは
「一人の存在が世界の運命を変える」
という“個と世界”の関係を詩的に示す手法です。
“men’s hearts would be at peace”
は、単に恋愛の話ではありません。
ここでの“men”は
を象徴します。
つまり文学的には、
「欲望がなければ争いは起きない」
「魅力は世界を乱す力を持つ」
という寓意が込められています。
この文は、単なる批判ではなく、
が同時に存在しています。
文学的には、こうした多層的な感情の重なりが
この一文を豊かにしています。
| 要素 | 文学的意味 |
|---|---|
| クレオパトラ | “世界を動かす魅力”の象徴 |
| 男の心 | 欲望・権力・弱さの象徴 |
| 平和 | 欲望が鎮まった理想状態 |
| 仮定法 | 世界の別の可能性を示す詩的手法 |
| 全体のトーン | 賛美+皮肉+嘆息の混合 |
この文は、
「魅力というものは、世界を乱すほど強い力を持つ」
という人間存在の本質を、
クレオパトラという象徴を通して語った文学的表現です。
和夫さん、もしよければ次は
どれかを深めてみませんか。
和夫さん、ではこの一文を詩として読む方向に舵を切りましょう。
文学的読解よりさらに一歩踏み込み、
**言葉の奥にある“情緒の構造”**を読み解く作業です。
If Cleopatra did not exist in the world, men's hearts would be at peace.
この文を詩として読むと、まず聞こえてくるのは
**深い嘆息(ためいき)**です。
「はあ……もしクレオパトラなんていなかったらなあ……」
という、
どうにもならない魅力への降参の息。
詩はしばしば、
“言葉にならない感情の余韻”から始まります。
この文もまさにその型です。
詩的読解では、クレオパトラは歴史人物ではなく、
といった抽象的な力の象徴になります。
つまりこの文は、
「美とは、世界を乱す力である」
という詩的真理を語っている。
“peace” は単なる平穏ではなく、
詩的には “静けさ・無欲・透明な心” を意味します。
つまりこの文は、
美が現れると、人の心は透明さを失う
魅力は、心の湖面に波紋を投げかける
という、
美と心の関係を描いた詩なのです。
詩として読むと、この文は二つの世界を対比させています。
| 世界 | 詩的意味 |
|---|---|
| クレオパトラのいない世界 | 静けさ・透明・無欲・平和 |
| クレオパトラのいる世界 | 魅惑・混乱・欲望・運命の奔流 |
この対比は、
“美は世界を変える”
という詩の永遠のテーマを呼び起こします。
詩的に読むと、この文は
美は罪である
しかし、その罪こそが世界を輝かせる
という逆説を抱えています。
つまりこの文は、
美に惹かれずにはいられない人間の弱さと幸福
を同時に歌っている。
この文は、
クレオパトラという名前を借りて、
を一息に描いた、
**短いが深い“美の詩”**です。
和夫さん、もしよければ次は
どの方向でもさらに詩的に展開できます。
和夫さん、ではこの英語の一文を、
和歌の形式・美意識・象徴体系に乗せて“和歌化”してみましょう。
ここでは、単なる翻訳ではなく、
**和歌が持つ「余白」「暗示」「象徴の置換」**を使って詩的に再構成します。
原文の核は次の三つです。
和歌では、これらを
自然の景物に置き換えて象徴化します。
世にあらば
心の波も 立ちぬべし
クレオパトラの
名こそ乱れめ
意味
「彼女がこの世にあれば、心の波は立ってしまう。
クレオパトラという名こそ、心を乱すのだ。」
※ “名こそ乱れめ” は『古今集』的な語感で、
名前そのものが心を乱す象徴として扱っています。
なかりせば
男の心 澄むらむに
世を乱すらむ
クレオパトラは
意味
「もし彼女がいなかったなら、男の心は澄んでいただろうに。
それほどに世を乱すのだ、クレオパトラは。」
※ “なかりせば” は古典和歌でよく使われる仮定の表現。
クレオパトラという固有名詞を自然の象徴に置き換えると、
より“和歌らしい”世界になります。
秋の夜の
月なかりせば 波もなく
男の心
澄みて明けなむ
意味
「秋の夜の月がなかったなら、波も立たないだろう。
男の心も澄んだまま夜が明けるだろう。」
ここで
和歌は固有名詞を避け、象徴に変換することで
より普遍的な詩になります。
世の人の
心乱るる 罪ならで
美しきものの
さだめとぞ知る
意味
「人の心が乱れるのは罪ではなく、美しいものの宿命なのだ。」
これはクレオパトラを直接出さず、
原文の“美の力”を抽象化した和歌です。
和歌化では次の技法を使いました。
これらを組み合わせることで、
英語の一文が“和歌の世界”に自然に溶け込みます。
もしさらに深めるなら:
どの方向でも展開できます。
和夫さん、では先ほどの和歌を、
伊勢物語の語り口・情景構成・余情の作り方に従って
“伊勢物語風”に書き換えてみます。
伊勢物語らしさとは、
このあたりが特徴です。
ある男、世のこと静かに思ひわたりけるに、
かの国より来たりける、
人の心を乱すと聞こゆる女のありけるを、
ふと耳にして、
「かかる人、世になかりせば」と思ひ嘆きけり。
その心を詠める。
なかりせば
男の心 澄むらむに
世を乱すらむ
月の光は
ある男が、世の中のことを静かに考えていたとき、
遠い国から来たという、
人の心を乱すほどの美しさを持つ女の噂を聞いた。
そのとき男はふと、
「もしこの世に、あのような人がいなかったなら、
どれほど心静かに暮らせただろう」と嘆いた。
その思いを歌にした。
もしあの光がなかったなら、
男の心は澄んでいただろうに。
それほどに世を乱すのだ、
あの月のような光は。
クレオパトラ → 月の光
伊勢物語は固有名詞を避け、象徴で語ることが多い。
伊勢物語の典型的導入。
直接「恋」と言わず、
“心乱る”“澄む”などの語で暗示。
伊勢物語は和歌が中心で、地の文はその前後を支えるだけ。
伊勢物語には異国の女性は出ないが、
“遠い国”という曖昧な表現で異質性を出す。
どの方向にも発展できます。
和夫さん、「桜」を象徴に据えて“伊勢物語風”に書き換えると、
物語の気配が一段と柔らかく、そして儚くなります。
桜は 「美しさ」「はかなさ」「心を乱すもの」 の象徴として、
クレオパトラの役割を完全に引き受けることができます。
では、桜を中心に据えた 伊勢物語風・短章 をお届けします。
ある男、春のほどに、
山の端に咲き満ちたる桜を見て、
そのあまりの美しさに、
心のうち静かならず思ひける。
「この花、世になかりせば、
人の心も乱れじ」と、
ひとりごちて詠める。
なかりせば
男の心 澄むらむに
散りては乱る
山の桜は
ある男が、春のころ、
山の端に咲き誇る桜を見ていた。
その美しさがあまりにも強く、
心が静まらず、どこか落ち着かない。
そこで男はふと思った。
「もしこの花が世になかったなら、
人の心もこんなに乱れはしないだろうに」
そう嘆いて詠んだ歌。
もし桜がなかったなら、
男の心は澄んでいただろうに。
散るたびに心を乱すのだ、
あの山の桜は。
桜はただ美しいだけでなく、
その美が人の心を揺さぶる存在。
散り際の儚さは、
クレオパトラの“運命を変える美”と同じ構造を持つ。
伊勢物語は自然の象徴を通して心を語る物語。
桜はその象徴として最適。
どの方向にも発展できます。
和夫さん、では桜を紅葉に置き換えて、
伊勢物語の語り口・情緒・象徴体系に合わせて
秋の章段として書き直します。
桜の「はかなさ」が、紅葉では
燃えるような美しさ/散りゆく定め/水に流れ落ちる運命
へと変わり、
より深い“心の乱れ”が描けます。
ある男、秋のほどに、
山の谷より吹きおろす風に、
紅葉の散りかかるを見て、
その色のあまりにあざやかなるに、
心のうち静かならず思ひけり。
「この葉、世になかりせば、
人の心も乱れじ」と、
ひとりごちて詠める。
なかりせば
男の心 澄むらむに
水くくる
竜田の紅葉は
ある男が、秋のころ、
谷から吹く風に散りかかる紅葉を見ていた。
その色があまりにも鮮やかで、
心が静まらず、どこか落ち着かない。
そこで男はふと思った。
「もしこの紅葉が世になかったなら、
人の心もこんなに乱れはしないだろうに」
そう嘆いて詠んだ歌。
もし紅葉がなかったなら、
男の心は澄んでいただろうに。
水をくくるほどに散り乱れて、
心を惑わせるのだ、竜田の紅葉は。
桜が「はかなさ」なら、紅葉は
燃える美・散乱・運命の色。
伊勢物語・古今集の紅葉歌の核心語。
紅葉が水に散り、流れを乱す=心の乱れ。
紅葉の名所として、
“美が世界を染める場所”として古典的。
自然の景物が心の動きをそのまま映す、
伊勢物語の典型的構造。
どの方向にも発展できます。
和夫さん、そう言ってもらえると、こちらも胸の奥がふっと温かくなります。
紅葉の章は、桜よりも少し深い陰影が出て、伊勢物語の世界にとてもよく馴染むんですよね。
あなたの反応が「おもしろかった」という一言なのが、むしろ業平的で粋です。
せっかくなので、余韻としてもう一つだけ“紅葉の情緒”を添えておきます。
散るままに 色を惜しめば 心こそ
秋の夕べの 風に乱るれ
意味
「散ってゆく色を惜しめば惜しむほど、
心は秋の夕風のように乱れてしまう。」
紅葉は、見つめれば見つめるほど心を揺らす存在。
クレオパトラの“美の力”を、
日本の自然の象徴に置き換えると、
こんなふうに静かで深い揺らぎになります。
もし気が向けば、次は
どれでも遊べます。
和夫さんの好みの季節や景物に合わせて、
さらに深い章段を作れますよ。