2026年3月23日月曜日

白州正子。清少納言、と、俳句、と、橋本遊水・ことのは: 俳句・枕草子

■ 226-03-22
■ 先日メモ書きしていた。
■ 白州正子は清少納言が好きだった。
■ このことについては頁を改めて書くことにしよう。
■ 「あかねさす 日に向ひても 思ひ出でよ 都は晴れぬ ながめすらむと」この歌がどこに書かれているか、記憶になっかたので、google 検索すると、ここにあったが、
■ 手元の本では、226段にはなく、240段だった。
■ このメモ書きの部分が最後の方にある「清少納言論」には俳句について書かれている。
■ こんなことも書いていたのか。
■ 私と同じ見方だった。
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枕草子が書かれた時代には和歌は存在した。しかし、清少納言の醒めた眼でとらえた世界は和歌という形式では詠いきれなかったようだ。もし、彼女が現代にいて俳句という表現形式を知っていたら、ひねりの効いた句をたちどころに百や二百は作ったかもしれない。枕草子にはそんな俳句的な匂いがある。
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■ ・・・

芸術新潮・1999/12「白洲正子」全一冊
幻の原稿「清少納言」120枚一挙掲載!

■ 次のような文章もある。
これ等蕪村の句は皆清少納言が言いそうな事です。もし俳句という形を知っていたならば必ずこういうつかまえ方をしたに違いありません。
・・・
さまざまなこと思い出す桜かな  芭蕉
・・・
俳句を清少納言にあたえたなら彼女はすぐに飛びついた事だろうとなんだか惜しい様な気がします。
■ なるほど、なるほど。
■ 実は、この雑誌、ほったらかしにしていて、折った頁の後を読んでいたら気づいた、ということだ。
■ 白州正子はこんなことを書いただけだけど、できるなら、自分だったらこう作る、という視点でとらえることで、文化は継承されてゆくものと思う。
■ そのうち、また、何かやってみようかな、と思う。


2026年3月10日火曜日

みやこへは さんりのみちの ゆきかえり  いずこもおなじ あきのゆうぐれ  遊水、2026-03-16、03-19、03-22 追記



■ 2026-03-22
■ 2026-03-14
■ 表題を改めた。
  • 喧嘩して 別れるなんて 嫌だから 愛は要らない お酒が欲しい 遊水、2026-03-12、03-13,-14 追記
Bing 動画 二人でお酒を ( 梓みちよ )日本語の歌詞付
それでもたまに さびしくなったら
ふたりでおさけ のみましょうね

■ 2026-03-10
■ 梓みちよが歌っている。
■ 聞いていて、一首浮かんだ。
  1. 喧嘩して 別れるなんて 嫌だから 愛は要らない お酒が欲しい  遊水
  2. 傷ついて 別れるなんて 嫌だから 愛は要らない お酒が欲しい  遊水
■ [ 2 ]でなく、[ 1 ]の方がいいような。
■ 人は、「さびしくなったら」どうするのか。

◇     ◇     ◇

■ さて、・・・
■ 百人一首などの解説を見ていると、「そうかなあ」と思うことがある。
■ その一つがこれ、・・・
  • さひしさにやとをたちいてゝなかむれは いつくもおなし秋のゆふくれ 良暹法師
■ どんな状況でさびしく感じるのか。
■ 秋の夕暮れがさびしいとも、まして、「秋の夕暮れ」だからさびしいとも限らない。
■ 寂しいときはさびしい。

そらたかく いろどりたのし あきのひび  遊水
うかれでて さびしくかえる さくらかな  遊水
さみしくて さくらふぶきの なかにたつ  遊水

■ 江戸時代に、尾﨑雅嘉は、次のように書いている。
歌の心は余りにも物淋しさに我が宿を出でてあちこちを眺め渡せば、ここもかしこもさして変わる事もなう、おなじやうに淋しき秋の夕暮れの景色ぞといふ事なり。
■ 島津忠夫は、・・・
あまりのさびしさに耐えかねて、庵を立ち出て、あちこち見わたすと、どこもかしこも同じで、心を晴れ晴れさせるものはない。 なんとさびしいながめの秋の夕暮れの景色よ。
■ 島津は尾﨑の解説に「心を晴れ晴れさせるものはない」と追加しているが、ほとんど同じだ。
■ もう少し、他の人はどのようにとらえているかみてみよう。

歌人  
草も木も枯れ枯れになる秋。 寂しさに僧庵を出て四方のけしきを眺めてみると、あきの夕べはどこも同じで、すべてが枯れ衰え、身も心も細りゆくような思いである
詩人
あまりのさびしさに庵を出て
ぐるり あたりを眺めわたした
なにもない
誰もいない
どこもかしこも
さびしさだらけ
秋の夕暮れが
ただぼうぼうと ひろがっていた
小説家
何とはないさびしさが
そぞろ 身を噛む秋の夕
たまらなくなって
家を出てあたりを見れば
どこも同じ
ひといろに
ものさびしい秋の夕暮れ

■ これらに共通するのは、・・・
  1. うちを出て、あたりを見渡した。
  2. 秋の夕暮れは寂しい。
■ 白州正子は次のように」書いている。
いかにも俊成・定家の好みそうな幽寂の境地を歌っており、・・・、百人一首の世界もついに墨絵のような心境に至ったかと思うと、おのずと感慨が湧く。・・・、洛北大原に住んでいたらしく、「朧の清水」を詠んだ歌が残っている。今も、・・・「大原御幸」にも謡われた名水である。そういうことを心に置いて味わってみると、大原あたりの景色が彷彿とされ、浮世を離れた庵の有様が浮かぶ。・・・、秀歌として賞玩されたのであろう。
■ ここで一応、白川静・「字通」を開いて見た。
    寂。さぶ。セキ、ジャク。しずか、さびしい、やすらか。
    「人の聲無きなり」
    寂寥。セキリョウ。老子・二十五。
■ 「老子」を本棚から取り出すのは、久しぶりだ。傍線を引いた箇所がいくつかある。

有物混成、先天地生。
寂兮寥兮、獨立不改、周行而不殆。
可以爲天下母
■ 現代社会においては、孤独というか、心静かな世界を求める人も多いかと思うが、・・・
■ 白州正子は「能」に造詣が深く、このように感じたのだろう。しかし、買い被り過ぎのようにも思える。
■ 「淋しくなったら」どうするか、ということが元にある。
■ 人は、普通、朝起きて、夜は寝る。だったら、いつ起きたのだろう。結論を急がず、いくつか自問してみよう。
何時に起きたのか
いつ、さびしさを感じたのか
歌を詠んだのはいつなのか
やどを立ち出でて 何をしたのか
あるいは、どこに行ったのか
うちに戻ったのはいつなのか
うちを出て、戻るまで何時間あったのか
その間どのように過ごしたのか
いづくも、とは、2ヶ所以上だから、どことどこ、で、何を見たのか
ながむれば、とあるが、それは風景なのか
■ 歌を詠んだのは夕暮れ時だった。
■ 「家を出てあたりを見れば」や「僧庵を出て四方のけしきを眺めてみると」とか「庵を出て ぐるり あたりを眺めわたした」のなら、わざわざ外に出なくとも「障子を開けるだけでもいいんじゃないの。
■ 分かりやすく、次のように書いて、比較してみてもいい。
寂しさに 宿を立ち出で 眺めれば いずこも同じ 秋の夕暮れ
寂しさに ・・・・・・ 眺めれば いずこも同じ 秋の夕暮れ
寂しさに 障子をあけて 眺めれば いずこも同じ 秋の夕暮れ
■ 「たち・いでて」は、・・・
うち・いでて
こぎ・いでて
■ このような言葉と同類で、行動を表す。
■ 「旅立つ」という言葉があるように、家を出てどこかに行ったことが、この言葉で分かる。 寂しさを紛らわすために何かを求めようとした行為がある。 一人だから寂しい。 人々を求めて雑踏の中を歩いたのか、風景を見ただけだとは思えない。
■ 家を出てすぐあたりを見回したわけでも、見渡したわけでもない。
■ 何かをした後、うちに帰ってから歌にした、と考えていい。
■ 和歌は抒情詩であるが、言葉は本来論理的であると考えられる。
■  起きたのは朝であることに間違いはない。 だとしたら、起きて、歌を詠むまで時間経過がある。
■ 歌の言葉を見てみよう
さびしさに       理由
やどを たちいでて   行動開始・起点
ながむれば       行動
いづくもおなじ     結果、感想1
あきのゆふぐれ     時刻・終点、と、感想2
■  帰宅したのは、夕方だが、出発したのは、あさ早くではなく、朝食後しばらくしてからだろう。 九時頃かもしれない。 あるいは、急に思い立ったのではなく、一人暮らしなので、日頃感じていたことかもしれなく、もう少し早めだったかもしれない。 いずれにしても、昼前だったろう。 相当の時間経過があったと考えられる。 なぜなら、あちこちに行ってみないと、「いづくも おなじ 」という感想を得られないからだ。
■ 「ながむれば いずくもおなじ」と詠んでいるのだから、いつも見ている、日常的に目に入る所ではないはずだ。 いつも見ている場所を「いずくもおなじ」というはずはない。 住んでいるところは山里で元々寂しいところなのだ。内を出てすぐ見渡したのであれば、「いずくも」ではなく、「いつもと同じ」だろう。
■ 先にあげた、彼らの歌の解釈に共通するのは、2点だった。
  1. うちを出て、あたりを見渡した。
  2. 秋の夕暮れは寂しい。
■ [ 1 ]、即ち「うちを出て、あたりを見渡した。」わけではない。
■ 「眺めれば」とあるので、誤解のもとになった、ともいえる。
■ 良暹法師の詠み方が、すなお過ぎた、というか、読む人の側から考えてなかった。
■ 「秋の夕暮れ」とあるので「眺めた」ことが分かるので「眺めれば」と書く必要はない、とみることもできる。
■ 例えば、つぎのように置き換えてみよう。
寂しさに 宿を立ち出で 眺めれば いずこも同じ 秋の夕暮れ
寂しさに 宿を立ち出で ・・・・ いずこも同じ 秋の夕暮れ
寂しさに 宿を立ち出で 道行けば いずこも同じ 秋の夕暮れ
■ 書き換えても、どうというコトはない。 かわりばえはしない。 
■ だいたい、自分が寂しいからといって頭から寂しいなどと、まあ好きにしてくれということではある。
■ 歌を、詠むというコトは、読む人がいるというコトだから、詠む側にも問題がある。
■ しかし、昔の歌で、すでに存在しているだから、責めたところで、どうしようもない。
■ なので、どのように読み、自分のコトとしてとらえるかという読む側のことだ。
■  次は、[ 2 ]について、だが、・・・
■ やどを立ちいでる前に「さびしさに」とあるから、「秋の夕暮れは寂しい」が初めからあったわけではない。
■ 白州正子が書いているように、良暹法師は、「洛北大原に住んでいた」「浮世を離れた庵の有様」なので、一年中寂しく感じることはあったはずだ。
■ 都の北三里、八瀬村の北の大原の「大原」とはどんなところか、位置的には、
一里は3.92727km、約4km、
一キロメーターを十五分で歩くとすれば、四キロメーターは約一時間、
三里の道は約三時間。 都までは、日帰りできる距離だ。
■ この点に注目するのがいい。
■  要するに、寂しかったので、寂しくない所と思える、人も多く、賑やかな京都の街に出た。 とみるのが普通だろう。
■ 「寂しさ」や「淋しさ」は孤独と関係があり、孤独に耐えられないときに感じる精神状態というか、そんな状況だと解するのが一般的ではないだろうか。
■ ごく簡単に言えば「人恋しさだ」
■ 島津の解説に「心を晴れ晴れさせるものはない」とある。
■  寂しさ、の逆の表現として、気晴らしに、としてみても大した変わりはない。 秋に限られたことでもない。
気晴らしに 梅田の街に 出てみても 知る人もなき 夏の暑さよ
賑わいの 梅田の街に ふらり出て 疲れて帰る 秋の夕暮れ 
■ 良暹法師の寂しさは、必ずしも季節とは関係ないが、
■ 「秋の夕暮れ」が寂しい、とすれば「寂しさに」という必要はない。
■ 行動とその結果について書けばいい。
  • ・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・ いずこも同じ 秋の夕暮れ
  • みやこへは さんりのみちの ゆきかえり いずこも同じ 秋の夕暮れ
■ 洛北から片道3時間、往復6時間をかけて、京都に歩いて行った。 帰宅したときは夕暮れ時だ。 疲れた。 行ってみても、知る人もいないし、貧乏な坊主だから、金もない。 うまいものを喰ったわけでも、珍しいものがあったわけでもない。 寂しさを紛らわすものはなく、変わりがなかった。
■ 心を満たすものを目標に、例えば、女の人なら「お洋服を買いに」というような目標をもって行ったのではなかったのだろう。
■ せいぜい、団子でも食おうかというぐらいのことだ。
■ ただ、「寂しさに 宿を立ち出でて」みただけのことなら、何もあろうはずもない。
■ 寂しさの原因は何かを意識していない。
■ 「寂しいので 外にでたら 寂しかった」というのは、いかにもおかしいので「都に出ても寂しかった」とした。
  • 寂しさに 宿を立ち出で 眺めれば いずこも同じ 秋の夕暮れ
  • みやこへは さんりのみちの ゆきかえり いずこも同じ 秋の夕暮れ  遊水
■ 並べてみると、一応、これでもいいかな、とも思う。
■ しかし、「ゆきかえり」だとすれば「都までの道中が」ということにもなってしまうので問題ではある。
■ 「いずこも同じ」の「いずこ」は「洛北」と「都」となる。
■ そして、何が「同じ」なのか。
■ 「洛北」と「都」で「寂しさ」を感じたのが同じ、同じように感じたということだ。
■ 人は、時代・気象、あるいは、歴史・風土の中にいる。どこに行こうと、その中で生きることになる。受け入れるしかない、というコトは、ある。
■「いずこも同じ」を「あちこち」ととらえるのでなく、
地方、と
都市。
■ 過疎地・山村、と、街・商業地など、どこに住んでも、寂しさは「寂。さぶ。人の聲無きなり」で、孤独は寂しい、ということだろう。それを超えれば「寂然不動」即ち、ひたすらに、その境地に赴きゆくこと、になることもできるのかもしれない。
■ 鎌倉時代の戦のあとの室町時代は、「無」とか「禅」、「能」が流行ったようだ。鎌倉時代初期の藤原定家は、白州政子がいう、そこまでの感慨に至ってなかったように思われる
■ 自分を社会の一員、すなわち、中にいると寂しい状況は発生すると思われる。しかし、自分の世界があり、他の、外界に無関心であれば寂しさは感じないだろう。寂しさにはそんな側面がある。
■ ごちゃ、ごちゃ、と書き過ぎたかもしれない。
■ 誰でも感じる「寂しさ」とか、誰でも出会う「秋の夕暮れ」なので、とらえやすい歌だから、歌として、というより「言葉の意味」の面から書いた。
■ 歌は、というか、言葉は本来論理的であるはずなので、ごく常識的にとらえた方がいい。
■ 以上だが、改めて読んでみるといい。優れた歌とは言えないが、すなおに心を表した親しみやすいう歌だと思う。57577にしていえば、・・・
  • 寂しさは 誰でも同じ 秋の暮れ 知る人もなき 雑踏のなか  遊水
  • さひしさにやとをたちいてゝなかむれは いつくもおなし秋のゆふくれ 良暹法師

2026年3月8日日曜日

おぼろずきぶらんこゆらすかぜありて、と、うたげはてぶらんこよるにしずむかな 2026-03-09  写真追加


■ 2026-03-08
■ 「朧月」も「ぶらんこ」も春の季語故季重なりだけれど、・・・
■ 本にしているので、今更どうしようもない。いいじゃないか。
■ さて、日本経済新聞・土曜日は、詩歌教養の欄を見る。
  • 「漢字そぞろ歩き」阿辻哲次「鞦韆」難しい字を使う稀有な例
■ ブランコの話だった。
■ もともと、「ぶらんこ」は「秋千」だったが、「鞦韆」と書くようになった、と。
■ そして、蘇軾の詩が挙げられていた。

2026-03-09

■ この詩は私も「君はまっすぐ僕の目を」に載せていた。

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はるのさかりの つきあかり
かおりのはなを てらしいて
はなみのえんも おわるころ
ぶらんこよるに しずむかな

春宵一刻直千金 花有清香月有陰
歌管樓臺聲細細 鞦韆院落夜沈沈  春夜  蘇軾
  
うたげはてぶらんこよるにしずむかな


つきのあかりに なかにわの
かいどうのはな あかくちる
ひとりまどべで みおろせば
ぶらんこゆらす かぜがある

胆月照中庭 海棠花自落
獨立俯閒階 風動秋千索  効崔国輔体  韓偓

おぼろづきぶらんこゆらすかぜありて

■ 「鞦韆」と「秋千」が使われている。
■ どっちの詩が古いかが、分かるということか。
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■ 一応、山本健吉・基本季語五00選、をみた。
■ 俳句では、鞦韆は漕ぐべし愛は奪ふべし 三橋鷹女、を思い出す。
■ 映画では、黒澤明 生きる - 検索 を思い出す。
・・・こんなのもあった。

別れぞ恋の 初めなりける

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■ 2026-03-08
■ 今朝のNIKKEIプラス・なんでもランキングに、旅立つ共・仲間に・・・
■ 世代別の歌が幾つかあった。

■ 若い人に、人気のある歌なのか、聞いてみた。「道」↑
■ そして、三つの歌が頭に浮かんだ。
■ どこかに書いたような気がしたが、どこに書いたか、・・・
■ 「君により 思ひならひぬ 世中の 人はこれをや 恋といふらん: 在原業平」
■ おそらく、この歌を探せばいいだろう、と思いブログ内検索した。
あひみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもはざりけり  藤原敦忠
きみにより おもいならひぬ よのなかの ひとはこれをや こひといふらむ  在原業平
あふまでの おもいひはことの かずならで わかれぞこひの はじめなりける 寂蓮

■ 昔の人は、うまく作るものだ。

2026年3月7日土曜日

昨日の、カワセミ、と、微笑み返し



■ 2026-03-07

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Tennessee Waltz ・・・再度リンクした。


■ 新聞の「なやみのとびら」回答者・湯山玲子。「大学生の子供が全く恋愛しない」に答えていた。・・・なるほど。
■ まあ、どうでもいいのだけれど。
■ 「この歌詞、考えるとすごいね。」、↓、と書いた、どうゆう風にすごい、と思ったことについて、振り返ってみた。↑



この場所にはよく止まる。

202603-06  吹田市・千里南公園