2026年7月30日木曜日

さしずめ、消えた8時間の謎、とでも言うのか


■ 2026-07-30
  1. 額ささやかに打つあられかな
  2. 額ささやかに撲つ夕あられ
「四条橋おしろい厚き舞姫の額ささやかに打つあられかな」と覚えていた。与謝野晶子は何度か直していたのか。なるほど。やはり、これでいい。
こんなことにも気が付いた。


謎ではないよ、ワトソン君、移動時間だよ。
与謝野晶子の歌にも「三里」が出てくる、こちは「大原」ではない。西の方だ。
  • ほととぎす 嵯峨へは一里 京へ三里 水の清滝 夜の明けやすき
「京へ三里」は字余りだ。調子からいえば「へ」はない方がいい。
夏の歌なので、「夜の明けやすき」はあたりまえ、といえば、あたりまえ。
ついでながら、松尾芭蕉は
  • 清滝の水くませてやところてん 芭蕉
こんな句を作っていたようだ。今、知った。

2026年7月29日水曜日

百人一首の解説を読めば、変だなと思うところがいくつもある

■ 2026-07-29
■ 百人一首の解説を読めば、変だなと思うところがいくつもある。
■ それについて書いているのだが、気に入らない。
■ なぜ気に入らないのか、と自問する。
■ 人に納得してもらおうという気持ちがあるからだろう、と反省している。
■ 人がどう思おうと、自分の視点で書くべきだろう。

2026年7月26日日曜日

みやこまで 三里のみちの ゆきかえり いづこもおなじ あきのゆうぐれ  遊水 2026-07-28、07-29


■ 同じ題で 以前も書いている。書き直したというコトだが、どうかな、と思う。


■ 2026-07-26
■ 地球は、太陽の周りを公転しながら自転している。なので四季があり、夜と昼がある、などと、百人一首の歌の話で、言及する必要があるのかね、嫌だね。まったく。
■ 国立天文台で調べれば、日の出、日の入り、の時刻は分かると思うが、普通、朝起きて、昼間に仕事などして、夜になると寝る。 一応、常識だ。
■ 起きて、寝るまでに何時間かある。
■ さて、そこで何をしようかな、というコトだが、何か心が定まらない、ということもあるだろう。
■ 喜怒哀楽、という言葉があるが、いかにもチャイナーぽい言葉だ。喜怒哀楽で気持ちを表せるような気がしない。
■ 「さみしいな」というときもある。
■ 独りでいると寂しい。なので、そんな時どうするのか。友達もいなければ、賑やかなところに行こうと思うかもしれない。人によって違うだろう。
■ まあ、そんなことを考えながら、読んでみるといい。

さびしさに やどを立ち出でて ・・・

■ こんな風に始まる歌がある。先は読まず、と言っても、既に、何度も読ん暗記しているが、もう一度、はじめに戻り、ここでじっくり考えよう、ということだ。あわてることはない。和歌は31文字しかない。もっとも、この歌は、字余りのようだけれど、残りは、5・7・7だ。先を急いではならない。彼は何をしようとしたのか。彼の気持ちに寄り添ってみようじゃないか。
■ 「やど」とは自分のうちのことだけど、まず、何時に起きたのか。そして、何時頃「うち」を出たのかね。限定しなくていい。例えば、7時に起きて飯を喰い、8時に出たと仮定すればいい。都合が悪ければ訂正すればいい。あくまで、仮定だ。千年も前の人間の行動を確定できるはずもないし、確定する必要もない。9時に内を出たのであってもいい。
■ 内を出て、出っぱなしではない。当然、帰ってきた。いつ帰ってきたのか。

「ゆうぐれ」だった。

■ 季節は秋、「秋の夕暮れ」は寂しい。まあ、普通の感情だ。
■ 「さびしさに」うちをでて、寂しい感じの「秋の夕暮れ」に帰ってきた。
■ なので「いずくも同じ」ことだった。寂しさが解消されたわけでもなかった。
■ 朝9時に出て、仮に、夕刻、5時に戻った、とすれば、8時間がある。
■ 8時間で何があったのか。
■ これを解決するには、彼がどこに住んでいたかを考える必要がある。
■ 「さびしさに」だから人があまりいない所だったろう。

〇    〇    〇

■ どこに住んでいたか、歌からは分からない。島津忠夫・新版百人一首に書いてあった。

晩年は山城国大原に籠った
さひしさにやとをたちいてゝなかむれは いつくもおなし秋のゆふくれ 良暹法師

■ なるほど。これについて考える前に、
■ 江戸時代に、尾﨑雅嘉は、次のように書いている。

歌の心は余りにも物淋しさに我が宿を出でてあちこちを眺め渡せば、ここもかしこもさして変わる事もなう、おなじやうに淋しき秋の夕暮れの景色ぞといふ事なり。
・・・ 
この法師の住まれたる所は山城国愛宕郡の大原なり。これは都の北三里のほかにありて、八瀬村の北に当たれり、・・・
今草府村寂光院の東南2丁ばかりに泉あり。土人これを朧の清水といえり

■ 島津忠夫は、・・・
 
あまりのさびしさに耐えかねて、庵を立ち出て、あちこち見わたすと、どこもかしこも同じで、心を晴れ晴れさせるものはない。 なんとさびしいながめの秋の夕暮れの景色よ。

■ 島津は尾﨑の解説に「心を晴れ晴れさせるものはない」と追加しているが、ほとんど同じだ。もう少し、他の人はどのようにとらえているか見てみよう。

歌人  
草も木も枯れ枯れになる秋。 寂しさに僧庵を出て四方のけしきを眺めてみると、あきの夕べはどこも同じで、すべてが枯れ衰え、身も心も細りゆくような思いである

詩人
あまりのさびしさに庵を出て
ぐるり あたりを眺めわたした
なにもない
誰もいない
どこもかしこも
さびしさだらけ
秋の夕暮れが
ただぼうぼうと ひろがっていた

小説家
何とはないさびしさが
そぞろ 身を噛む秋の夕
たまらなくなって
家を出てあたりを見れば
どこも同じ
ひといろに
ものさびしい秋の夕暮れ

白州正子
いかにも俊成・定家の好みそうな幽寂の境地を歌っており、・・・、百人一首の世界もついに墨絵のような心境に至ったかと思うと、おのずと感慨が湧く。・・・、洛北大原に住んでいたらしく、「朧の清水」を詠んだ歌が残っている。今も、・・・「大原御幸」にも謡われた名水である。そういうことを心に置いて味わってみると、大原あたりの景色が彷彿とされ、浮世を離れた庵の有様が浮かぶ。特にこの歌を百人一首にえらんだ頃は、新古今の調べも定着し、その先駆けをなす秀歌として賞玩されたのでのであろう。
 
■ 「朧の清水」を詠んだ歌は、尾﨑雅嘉の解説に記載されている。「大原御幸」にも謡われた名水、とある「大原御幸」については、一応「平家物語」にもあたってみた。白州正子は「能」に詳しいのでこのような記述のなったのであろうが、想像しすぎかもしれない。
■ 寂光院には行ったことがある。当時も寂しかっただろう。大原は都の北三里にあった。良暹法師は、ここにあった庵を、おそらく朝に「立ち出でて」都まで行ったのだろう。

一里は3.92727km、約4km、
一キロメーターを十五分で歩くとすれば、四キロメーターは約一時間、
三里の道は約三時間。 都までは、日帰りできる距離だ

■ 片道3時間、往復で6時間、みやこで、団子など食う時間が2時間だとすれば、その日の行動が推定通りだったことが分かる。これを歌にした。「秋の夕暮れ」が寂しいのではない「自分自身が寂しい」そして、誰もがそんな気持ちになることがある。どこにいても、山里でも、賑やかだと思われる都にいても、寂しい時はさびしい。「人恋しさ」であるかもしれない。
寂しさは「秋の夕暮れ」どきに限るものではない。寂しいときは寂しい。

〇    〇    〇

みやこまで 三里のみちの ゆきかえり いづこもおなじ あきのゆうぐれ  遊水

さひしさにやとをたちいてゝなかむれは 
いつくもおなし秋のゆふくれ  良暹法師

お江戸日本橋 七つ立ち、を検索すると
「七つ立ち」とは、江戸時代の時刻制度に基づき、暁七つの時刻に出発することを意味します。現代の時間に換算すると、午前4時前後にあたります。民謡『お江戸日本橋』の歌詞では、日本橋を出発した旅人がまだ暗い中で提灯を持って歩き始める様子が描かれています 暁七つは、明け六つ(夜明けの時刻)より1刻前で、春分の頃では3時22分頃に相当する場合もあります
「七つ立ち」は日本橋を起点として、旅立つことだが、同様に、「たち・いでて」という複合動詞は、このうたの場合、旅ではないが、移動してどこかに出発することを意味する。ただ立ち上がって外に出たということでは、もちろん、ない。
漕ぎ・出でて
打ち・出でて
立ち・出でて
このような言葉があり、「打ち・出でて」は百人一首にある「田子の浦にうち出でてみれば~」の歌にあるが、これも何か変な現代語訳になっている。それは万葉集にある歌の原文を見ないからでもある。

田兒之浦従 打出而見者 真白衣 不盡能高嶺尓 雪波零家留
たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける

「馬に鞭打ち~」と訳しているのは見たことがない。「漕ぎ・出でて」はさすがに舟を漕ぐという認識はあるようだ。しかし、交通手段としての、馬の文化は失われている。「立ち・出でて」も失われているが、YouTube で動画をみながら、小唄など口ずさんでみればいいように思う。ザ・ピーナッツも「お江戸日本橋七つ立ち」𝅘𝅥𝅮 を歌っているのを発見した。

さひしさにやとをたちいてゝなかむれは 
いつくもおなし秋のゆふくれ

「さびしさ」は、漢字では、淋しさ、ではなく、寂しさだろうが、一応、白川静の辞書を見てみよう。












2026年7月22日水曜日

雨乞の 雨之香来山 洗い干す 白いころもに はつなつのかぜ   遊水


■ 2026-07-24
■ 2026-07-22
■ 言葉は最初は音声と手振りなどであったかもしれない。
■ 文字を持つことで音声を記録できるようになった。
■ 記録により、時と空間を超えることが可能になった。
■ 言葉は情報であり、事実の他、心、気持ち、心情、考え想像である。
■ 詩歌は、最初は祈りであったかもしれない。
■ このあたりのことを厳密に論述しようとは思わない。
■ ただ詩歌に関して、日本人の文化、心や事実、環境などを理解したいと思う。
■ 万葉集は日本の最初の歌集だとされている。
■ 歌は、まとまった歌集でなくとも、古事記にもあるし、あるいは、他の書物にも見られることと思う。
■ 日本語は、漢字を取り入れたことで、今日にいたる文化を作り上げた。
■ 最初は「ことば」を表音文字としての漢字で表した。
■ ここで取りあげる、持統天皇の歌がひとつの例だ。

春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山
はるすぎて なつきたるらし しろたへの ころもほしたり あめのかぐやま

■ 漢字だけで書き写すには手間がかかるので、平安時代には、いわゆる、万葉仮名が考えられ、使われた。漢字、ひらがな、カタカナ、の混合文が日本語の特徴だ。
■ 新古今和歌集では、

春過ぎて夏来にけらししろたへの衣ほすてふあまのかぐ山

■ 百人一首では「衣ほすてふ」としているが、大きく誤解させることになった。原文にない「てふ」にしたことで何か言い伝えでもあったかのようにとらえられた。
■ また、「天之香来山」を「天の香具山」とし、「あめのかぐやま」を「あまのかぐ山」としているところは非常によくない。本質的な理解を妨げることになってしまった。
■ 藤原定家という偏狭な一介の老歌人による無理解が原因だっただった、と指摘したい。
■ 「白妙」「白栲」の違いもある。
■ これらについては、おいおい書くとして、馬場あき子はこんなことを書いている。
「この歌を読みながらふと思うのは「春過ぎて」という初句はなぜ必要だったのか、ということだ。「夏は来ぬ」ではじまっても一向におかしくない。」
■ 歌人らしい指摘で面白いと思った。31文字のうち、5文字を使っているのだから、他に表現もあるだろうともいえる。「春過ぎて」を使わない歌を提示してくれたらよかったと思う。
■ おそらく、当時「初夏」という言葉がなかったのだろう。

はつなつの かぜとなりぬと みほとけは をゆびのうれに ほのしらすらし  八一

■ 会津八一のこんな歌を思い浮かべた。
■ 私は、持統天皇の歌を参考にして歌を作たこともあるので、いろいろ見方もあるかと思う。
 
夏過ぎて 秋は来にけり 枯葉散る ・・・

■ 季節がゆっくり過ぎてゆく感じがある
■ 八一は仏像を見ながら夏が来たようだな、と感じた。持統天皇は、白妙能 衣乾有 と乾燥させている白い衣を見て、そろそろ夏だな、と感じた。八一はただ仏像の姿に思いを寄せたが、持統天皇の気持ちというか歌の心は何だったのか。

〇    〇    〇

■ 「天」が使われている天皇は二人しかいない。天智天皇、天武天皇、そして、持統天皇は天武天皇の妻であり天智天皇の娘だ。これらの名前は奈良時代につけられた。要するに、そのように評価されたということで、持統天皇は親によって作られた国を維持した政治家だった。また、天智天皇の父親の舒明天皇の「国見の歌」として知られる万葉集の二つ目の歌は天乃香具山からの眺望を歌っている。あるいは、孫にあたる持統天皇も一緒に登ったことがあったかもしれない。
国土地理院の地図では、奈良盆地の南東端にある丘は、大和三山と呼ばれ、次のように高さも書かれている。

152 m 天香久山
199 m 畝傍山
140 m 耳成山

「天香久山」の高さは海抜 152 mだが、近くの道路を基準にすれば、65 m の高さで「天・てん」とは何の関係もない平凡な丘で、山というほど高くない。 第十二代、景行天皇の頃は、「古事記」のヤマトタケルの歌に、比佐迦多能 阿米能迦具夜麻、とあるように、「あめのかぐやま」と呼ばれていた。
■ 持統天皇は「天之香来山」としているが、これをなぜ「あめのかぐやま」とするのか、「あめのかくやま」ではないのか、むしろ国土地理院の「天香久山」の方が「天の香具山」より正しい。ここでも「天」を「あま」と呼んではならない。あくまで「あめ」だ。
■ 日本書紀に、
日本書紀、神代上、第七段の、天照大神が石窟に隠れた場面を見ると、・・・
思兼神、深謀遠慮、遂聚常世之長鳴鳥使互長鳴。亦、以手力雄神、立磐戸之側、而中臣連遠祖天兒屋命・忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇眞坂樹、而上枝懸八坂瓊之五百箇御統、中枝懸八咫鏡 
とあり、ここでも天香山が見られる。掘天香山之五百箇眞坂樹、このように眞坂樹を掘り起こしている。眞坂樹は榊だろう。古代の人は榊の香りを特別な香りとしてとらえていたようだ。地名とか物の名とかは古ければごく単純に、というか純粋に、具体的な特性を意味している。香りの高い植物であり長寿のものとしては「樟」がある。神社には、樟が植えられていることも多い。日本書紀にあるように、天香山には、榊がたくさん生えていたようで、天照大神が岩戸に隠れたとき、この木が使われた。このようなことから神の木として「榊」文字が作られたと考えられる。
本榊は花の匂いが穏やかで甘い香り、ヒサカキは独特で強い匂いを持つ。
榊の匂いを嗅ぐ、ことの連想から「かぐ」「香具山」と呼ばれる」ようになったのかもしれない。
■ 藤原定家(1162年 - 1241年)が生きた時代は、持統天皇( 645年 - 703年)と、約500年の隔たりがある。この隔たりが持統天皇の気持ちを理解できなくした。定家は持統天皇の歌にある「天之香来山」を見たのだろうか、ただ想像しただけだろうか、あるいは歌としての調子が気になっただけかもしれない。現地に行かず伝聞的に「てふ」としたものだから、何かがあったと思う人も出てきた。昔の人の歌は素朴な現実を歌っている。
「百人一首」という世界から見ている限り、500年前の人の気持ちは分からない。まして、世の中を統治する天皇の考えには思いが至らないのだろう。
■ 飛鳥時代における持統天皇の治世をどの程度知っているのか。
飛鳥時代
奈良時代
平安時代
と過ぎ、定家が百人一首を編纂したのは鎌倉時代になってからだ。
■ 天智天皇の歌は稲の実りの喜びの歌だ。国にとって、農作が重用だった。
■ 日本書紀には持統天皇が「雨乞い」の儀式をしたとある。
■ 稲作にとって天候が重要だが、天気は人の力ではどうしようもない。ただ祈るばかりだ。為政者の持統天皇は、春が過ぎ、夏が近づき天気が気になったと思う。
■ 「天之香来山」は祈りの場、高台だ。そのふもとに民が粗末な白い衣を干しているのを見て、今年は雨乞いをせずに済むかどうか気になった。

民人が 衣洗いて 干したるか 木の間に 白く夏は来にけり  遊水
春過而 
夏来良之 
白妙能 
衣乾有 
天之香来山
■ ここまで書いて、「はつなつ」を思い出した。自分だったら歌にできるのか。

雨乞の 雨之香来山 洗い干す 白いころもに はつなつのかぜ   遊水




2026年7月17日金曜日

はや、1年。と、「漢詩に遊ぶ2」

■ 2026-07-17
■ 2冊目をまとめているところだが、急ぐこともないか、などと、思う反面、やはり適当な時期に出版した方がいいかな、と思う。


■ これは、在庫はあるので、購読してもらって、気に入った句などを見つけてくれたら、嬉しい。

■ 今週は「漢詩に遊ぶ2」が何人かに閲覧されていた。