2026年9月14日月曜日

羊羹が もっとも好きだと 漱石が 食いたる品は 小城羊羹か

夏目漱石 草枕
「御退屈だろうと思って、御茶を入れに来ました」
「ありがとう」またありがとうが出た。菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹ようかんが並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹がすきだ。

■ 2026-09-14
「草枕」を読みながら、こう考えた。熊本が舞台ならば羊羹は、隣の佐賀の小城羊羹かもしれぬ。
■ 包紙に「羊の羹」などと書かれている。先日、日本経済新聞・阿辻哲次・にも話があった。



しものよに ふりさけみれば あまのかわ いつまたあえる カササギのはし  遊水

■ 2026-09-14
■ もう一度、「かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける 大伴家持」について

あまのかわ ふりさけみれば かささぎの はしとわたして よはふけにける  遊水

■ 今回、次の歌が浮かんだ。この方が分かりやすい。
■ 定家は七夕の伝説が頭にあったと思う。
■ ただ、大伴家持の歌としてはこの歌しかなかった、ということだろう。
  • 霜の夜に ふりさけ見れば 天の川 いつまた逢える カササギの橋  遊水

2026年9月13日日曜日

世界が広がる大弐三位の歌、と、夢 寝 枕、と蜘蛛の糸


■ 2026-09-13
■ この頁を書いたとき思った。


はるかなる もろこしまでも 行くものは 秋の寝覚めの 心なりけり

■ ただ31文字の歌でいろいろ言おうとせず、一つのことを詠むのがいい。
■ 大弐三位の歌は、まさにそんな感じで、世界が広がる気がする。
■ これを本歌取りした定家の歌はいろいろ言葉がありすぎで、焦点が定まらない。
■ ・・・
■ こんなことに関する歌をもう少し見るとよいかも。
■ 千載歌集をみていると、詞書が多く、百人首などの言葉もみられる。
■ 組題百首
■ ここまで書いて、小説を題にして何か詠めるだろうか、たまたま、「花蓮」に関して歌を読んだので、そんなことを思った。
  • はなはちす ひとすじおとす くものいと 釈迦のすくいも むなしくきれて

2026年9月10日木曜日

はなのかに からだがふわり かるくなる ゆめをうつつに ときをうつりて  遊水 訂正 2026-09-14




■ 2026-09-10
■ ラベンダーだの、何だの、要するに「香り」だ。

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■ もう一度
  • 花の香に 身体がふっと 軽くなる 夢を現に 時を移りて  遊水
  • 花の香に 身体がふわり 軽くなる 夢を現に 時を移りて  遊水 2026-09-14

2026年9月9日水曜日

はるかなる いこくのちまで とびゆくは さえたねざめの おもいなるかな  遊水


■ 2026-09-09
■ 藤原定家が、百人一首の大弐三位として、なぜ「ありまやま」の歌を採ったのかは、例えば、なぜ、「もろこし」の歌を採らなかったのか、と考えてもいいかと思う。「もろこし」の歌の方がいいように思うからだ。

ありまやま ゐなのささはら 風吹けば いでそよ人を わすれやはする
はるかなる もろこしまでも 行くものは 秋の寝覚めの 心なりけり

もろともに ゐなの笹原 みち絶えて ただ吹く風の 音に聞けとや  藤原定家
心のみ もろこしまでも うかれつつ 夢路に遠き 月の頃かな  藤原定家
月清み ねられぬ夜しも もろこしの 雲の夢まで みる心ちする  藤原定家

■ もうすこし何とかならなかったものか。まあ、いいか。しかし、・・・
■ 冷静に判断すると、定家の詩的な感性はこの程度だったのか。なさけなくもあるけれど、どちらかと言えば、定家にとっては、「ありまやま」の方がよかったのかもしれない。

  • 遥かなる 異国の地まで 飛び行くは 冴えた寝覚めの 想いなるかな  遊水