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2016年5月8日日曜日

桐の話

桐の話
                               
   花の肖像画《 ボタニカル・アート

植物学的細密画をボタニカル・アートという。
植物を意味するボタニという言葉の響きがよくないせいか、
あまり一般的でなかったようだが、
教育テレビで「植物を描く」講座が放送されテキストが販売される等して、
興味をもつ人も多くなってきたのではないかと思う。
俳句を始めて植物の本も見るようになった。
佐藤達夫「花の画集a、b」(ユーリーグ社 : 1995.6)を時々開いて見る。
ボタニカルではないが、
伏原納知子の「四季の花のスケッチ」(講談社 : 1995.3)も楽しい本である。
写真がなかった頃は植物を絵で記録した。
標本の代わりの絵、説明するための絵であったが、
観賞する絵としても、写真にはないよさがあり、いいものである。
雑誌「サライ」のVol.8  No.19から新連載「百花物語」が始まった。
この瀬戸照の絵も美しい。
絵画といえば、例えばゴッホのように、
個性が尊重され、それがなければならないかに思われている。
人の心やとらえ方を絵に表現する、それが芸術性だと。
確かに個性的な絵画はそれなりのよさがあるが、
いま私は、例えば、ゴッホの絵などには殆ど興味がわかない。
ただ、原雅幸の描く風景画、画集でしか見たことはないが、
確固とした存在そのものである静かな絵に心ひかれる。
俳句でも作者臭のない作者から自立した、
けれん味のないあっさりした句がいいと思う。
自然そのものに人が感じる美があり、不思議がある。
ボタニカル・アートに美的、知的魅力を感じるのも
それにいくらか共通するものがあるような気がする。

   ロシアの王女《 ポロウニア

以前、アメリカ(カナダ?)で車を走らせているとき、
遠くの方にうすい紫の雲のように見えたが近付くと桐の花だった、
という文章を日経新聞で読んだとき、
日本のパスポートの表紙の図柄にも使われていた桐、
「七五の桐」「五三の桐」など紋章にも使われている桐だから、
日本の樹だという認識だったので、軽い驚きがあったことを記憶している。
桐は大気汚染に強く都会や海辺でも育つそうで、
大阪市内にある、勤務先の工場の敷地内にも何本かあり、
私は毎日目にしていた。
そして、

  きりのはなみあげるころになりにけり
  遠くから目印にして桐のはな

と、桐を題材にした俳句などを作っていたので、
驚きとともに興味深く感じた。
そのとき、「桐」の英語名を確認のため和英、英和の順に辞書をひいた。
手持ちの辞書には簡単な記述があった。

paulownia : キリ(木の)。[ Anna Pavlovna ](ロシア王女)にちなむ

簡単すぎる記述であったため、
このアンナ・パブロウナとはいつの時代のどんな人で、
なぜこの人の名をつけたのか、
そして名付けた人は誰なのか、そんな疑問がわいたが、
何年かたった。
たまたま図書館で見た、
大きくてどっしりした本に名前を見付けたのは私としてはうれしい発見であった。
さっそく借りて帰った。

 □  桐に学名を付けた男《 シーボルト

ドイツ人 Philipp Franz von Siebold ( 1796-1866 )
長崎沖に着いたのは一八二三年八月八日で、
オランダ人になりすまして上陸したのは十一日のことであったそうな。
西欧人は香辛料や茶などを手に入れようと競って東洋にやってきたが、
代々医学で知られた家柄のシーボルトは
薬草など植物に興味をもって日本にやってきた。
そして、800を超す日本の植物を何人かの人に描かせ残している。
うち200図の印刷を企画し、
結局150図が「FLORA  JAPONICA」として出版され、一八七0年に完成した。
彼の死後のことである。
立派なボタニカル・アート(植物画)で桐の図も見られる。
当時、本の出版は一大事業であったことだろう。
この本「フローラ・ヤポーニカ(シーボルト日本植物図譜、講談社)」の献辞に
「オランジュ公夫人にしてロシア公爵出身、アンナ・ポウロウナ妃殿下に」とあり、
資金援助を受けたようである。
高く大きくたくさんの花を咲かせる桐、
その上品なうす紫の花の色、
シーボルトはその花に自分と一つ違いの女性アンナのイメージを重ね見たのか。
こうしたことを考えながら桐の絵を見ると、
花の肖像画という言葉が似合うのである。
こうして、シーボルトによって、桐の学名が付けられ、
西欧に伝えられたことを知り、
またボタニカル・アートが好きになり、
「花の肖像画」という言葉を見つけた
大場秀章著「植物学と植物画」(八坂書房)を買ってきたり、
「ボタニカルアートの世界」(朝日新聞社編)を図書館から借りてくるのである。

 □ 信じられない《 ピンからキリ

 「ピンからキリまで」とよくいう。
最低から最高まで、とか、初めから終わりまで、ということだが、
英和辞典で調べたあと「桐」を広辞苑で引いたとき、
「ピンからキリ」の「キリ」の意味をそこに見た。
辞書を引く面白さはこんな関係なさそうなことを知ることでもある。
 「キリ」はクルスの訛で十字架が転じて十ということ、とある。
「なるほど」「キリは十」だったのか……
キリの意味が分かれば「ピン」はすぐ分かる。
ヤクザ映画で「ピンゾロのチョウ」などと賽の目を表現する。
ピンは、キリが錐でないように虫ピンのピン等ではなく、このピン、
即ち一で、「ピンからキリまで」は「一から十まで」ということになる。
しかし、何かすっきりしない。
  「ピンからキリ」という表現は隠語めいた響きがあり、そんな語感が引っかかる。
元々どのような歴史的背景のもとで使われたのだろう。
「ピンはね」などと同類でヤクザ言葉ではないだろうか。
だとしたら、
キリが十字架のクルスからきているとするのは何かちぐはぐで馴染めない。
  一応、
ピンがポルトガル語のpinta (点)を語源とし、サイコロやカルタの一を表すとしても、
キリが果たして十だろうか。
サイコロの目は一から六だし、花札は一月から十二月で、十ではない。
辞書の説明はもっともらしいが
「一から十まで」というのは十進法に慣れすぎた人の解釈のようで
何かイカサマくさい。
  花札は十二の図柄、各四枚、計四十八枚の札で最後に桐がある。
桐と鳳凰である。
この取り合わせは広く知られていたのか、
古くは枕草子に次の記述がみられる。
ついでながら引用しておこう。

    季題の宝庫《 枕草子

桐の木の花むらさきに咲きたるはなほをかしきに、
葉のひろごりざまぞ、うたてこちたけれど、
こと木どもとひとしういふべきにもあらず。
もろこしにことごとしき名つきたる鳥の、えりてこれにのみゐるらん、
いみじう心ことなり。
まいて琴に作りて、さまざまなる音のいでくるなどは、
をかしなど世のつねにいふべくやはある、
いみじうこそめでたけれ。

 文中の「ことごとしき名」の鳥が中国の想像上の鳥、鳳凰である。

□ 遊びの中の四季《 花札

花札は、
うんすんカルタが寛政の改革で禁止された後それにかわるものとして作られ、
京都の天狗堂から売り出されたのが始まりだそうで、
図柄は次のものであった。

  松    梅       桜
  藤    杜若(菖蒲)  牡丹
  萩    薄・月     菊
  紅葉   柳(雨)    桐
 
 冬の桐も堂々として、様になるので十二月に位置してもおかしくない。
古くは「桐一葉落ちて天下の秋を知る」というように
(元々中国では青桐をさすが、日本では桐も含み)
花よりも葉の方で知られた木であった。

  繁る葉を落し尽くして大木の
      枝に無数の桐の実ぞ鳴る

と私も歌にしている。
この十二月に当たる「桐」が
隠語としては最後を表す身近なかっこいい言葉だったのではないだろうか。
言葉について考察する場合、
時代や社会背景を無視してはならず、
「ピンからキリ」がヤクザ言葉だとするならば、
このキリは花札にあるように、桐からきていると考える方が自然だ。
「キリ」が最後なら
「キリがない」や「みキリ」「これっキリ」などという言葉も何か関係があるのか……。
おそらく、最後を表す言葉として「キリ」という語があり、
花の咲く時期(五・六月)に配さず、
洒落っ気で「桐」を最後にもってきたに違いない。
最後に出す札を切り札という。
キリ……切る、伐る、剪る、……桐は生長が早く切ってもすぐ芽を出す、
逆に、
まっすぐで節のないものを得るためには二・三年で根元から切った方がよい。
「此木、切れば早く長ずる故にキリという」(大和木草)のだそうである。
納得である。
 それにしても、花札の図柄は句・歌の題材になるものばかりで、
ヤクザ専用ではいかにも惜しい気がする。
やくざといえば,オイチョカブでの役に立たない数の八九三からきているそうだ。
花札と似たような大きさで株札というのがある。
一頃はやったヤクザ映画で手本引きという賭博のシーンがよくあつた。
親が肩から掛けた羽織の中で片手で札を繰り、
その一から六までの数のどれかをあてる賭博に株札が使われている。
デザイン的には洒落たカルタだ。
単純でしかも組み合わせで手の種類が多く、
数字とか優劣を決め易いものは賭博に使われ易く、
人がのめり込み易い遊びとなるが、
遊びというものにも流行・廃りがある。
花札もごく庶民的な遊びで、
裁判所の人たちの間でもよく遊ばれていたようだが、
ある時、仕事の方が疎かになり社会問題となり裁判官の職を失った。
それから花札の地位が下落してすっかり嫌われるようになったのだそうな。
そして、時とともに遊び方まで忘れられていったのである。

□ 時への想い、樹木への思い

さて、欧米に移植された桐は最初は観賞用だったそうだ。
日本では、
桐の/水を吸収しない、ひずみがない、比重が0.280.3で軽い、木目が美しい等の/特性を活かし、
箪笥や琴など材木として使うために植えられてきた。
現在は台湾、アメリカ、中国産のものが多く使われているのだそうな。
良質の桐は
会津桐や県花としている岩手県の南部桐が有名で
冬は寒い所である。
桐箪笥の三大産地は、静岡県藤枝/埼玉県春日部/新潟県加茂だそうな。
輸入材が増えるにつれて、日本の桐が顧みられなくなってゆくようだが、
桐にとっては見捨てられた方がかえっていいのかもしれない。
植物が本来もつ逞しい生命力で、樹木は自然に返るのである。
昔は娘が生まれると桐の木を植え、嫁ぐときそれで箪笥を作った、などと聞くが、
私の知る限り、そんな人は一人も居なかった。
いかにももっともらしいが、
昔なら十五・六で嫁にゆく。
伐ったあとの乾燥時間は何日か、また制作日数は、等々考えれば、
元々そんな習慣があったことさえ疑問になってくる程である。
しかし、年頃になった娘をもつ男が、そんな話を思い出して、
昔だったら、そろそろ今年は伐ることになるかもしれないな、
などと思ってこの木を見上げたのかもしれないな、
と見上げるのかもしれないね、と言う。
木や花に寄せる記憶や思いは人さまざまである。

  きりのはなみあげるころになりにけり

私は日頃目にしている桐を見て、ただそのままこの句を作っただけだが、
こんな観賞をされると、この句はその人のものだな、と思う。
自分で句を作らなくても、
こんな風に感じることのできる句を幾つかもつことのできる人は幸せだと思う。
そして私は、
そんな風に読んでもらえる句がもう少しできたらいいなと思うのである。