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2022年7月13日水曜日

心なき身にも無念は知られけり

  • 心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ  西行 新古今362
  • 心なき身にも無念は知られけり 射殺されたる人を思えば  遊水

2022年3月24日木曜日

心なき爱でココロが知られけり

 心なき爱でココロが知られけり■ 百人一首の西行の歌は「嘆けとて」だが、
  • 心なき身にもあはれは知られけりたつ沢の秋の夕暮 [新古362]
■ この歌はよく知られている。
■ 小林秀雄・西行、でも最初にこの歌をとりあげている。
■ 心なき身、とはこの歌では「あはれ」を感じることのないような境遇の者になる。
■ 小林は、心なき、という言葉自体に関して何も言ってない。
■ ただ、
  • 俊成の眼には、下二句の姿が鮮やかに映ったのは当然であらうが
  • 歌の心臓の在りかは、上三句にあるのが感じられるのであり、其処に作者の疼きが隠れている
■ としているが、小林は歌の心を知らなかったような感じだ。
■ 西行が自分のことを、心なき身、ということは
■ 逆に言えば、いかにも俺は、あわれ、を知っていると強調する感じで嫌味だ。
■ 一般的に悩みは西行だけのものではなく、様々な悩みを他の人もそれぞれ持っていると思う。
■ ただ、歌にすることができないだけだ。
■ 歌は作者から離れて存在しなければ価値はない。
■ 読む人に共感できることでなければ、まあ、勝手に悩めばいいという感じになる。
■ 「其処に作者の疼きが隠れている」などと出鱈目をよくいったものだ。
■ 百人一首の彼の「嘆けとて」を何度でも読んでみるがいい。
■ ところで、
■ 鴫たつ沢、の鴫とは何シギなのか、ということだが、野鳥撮影をしている立場でみると
■ おそらく、ハマシギなど、群れている種ではなく、
■ 「沢」だからアオシギが一番あてはまりそうだが、数は少ない。
■ アオシギは人が近づきにくい所にいるように思う。
■ とにかく、タシギなど1羽とか少数で生息している、種だと思われる。
■ 鴫たつ沢、とは潜んでいた鴫がいきなり飛び立つ様だ。
■ それにより、自分の存在以外の存在に気づいた。季節を感じたということだ。
■ 秋でなく春にも似たような場面はある。
■ 河川敷を歩いていると、いきなり足元から雲雀が飛び出すことがある。
■ ぎりぎりまでじっと隠れているのだ。
■ ついでに、山本健吉め基本季語五〇〇選、も見た。
■ 彼は鳥類に関して詳しい。
■ さて、
■ 百人一首に
  • 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風をあらしと言ふらむ(古今249)
■ こんな歌がある。
■ 万葉集には
  • [歌番号] 13/3282
  • [原文] 衣袖丹 山下吹而 寒夜乎 君不来者 獨鴨寐
  • [訓読] 衣手にあらしの吹きて寒き夜を君来まさずはひとりかも寝む
  • [仮名] ころもでに あらしのふきて さむきよを きみきまさずは ひとりかもねむ
■ このころは山から吹く強い風の「山おろし」を「あらし」としたのだけれど
  • 山風をあらしと言ふらむ
■ この「あらし」を「嵐」と書いてしまうと、ただの言葉遊びだとみられて、つまらない、ことになる。
■ 文字の「嵐」が「山」と「風」で構成されるからといって、「嵐」と書くと
■ 掛詞的に
  • 荒らし
■ という意味合いを持たせにくくなる。
■ 作者は「あらし」と書いていたのではないか。
■ 草木のしをる、つまり枯れてしまうのは山風が吹くからだ、とする歌なのだし、
■ 声に出してのことばの表記として「嵐」という文字は使わない方がよいと思う。
■ 山下、山おろしは地方により
  • 六甲おろし
  • 比叡下ろし
■ などと呼ぶこともあり、平野部では木枯らしや凩ということばもあるけれど、
  • 吹くからに 庭の草木も 荒れ果てる むべ山風を あらしといふらむ // 遊水
  • 山おろし 庭の草木も 荒れ果てる むべ山風を あらしといふらむ
■ こんな歌にしてもよかったかもしれない。
■ 言葉のごく本質的な意味は言葉自体にある。
■ 言葉を表す文字に内在している。
■ まあ、そういうことだが、
■ 気づくことは大切なことだ。
  • 明日という字は明るい日とかくのね
■ こんな歌がある。
■ 私の好みではないけれど、この人はそこに気づいた。
■ この歌を聞いて、
■ なぜか、「心なき」を思い出し、
■ google 翻訳で「愛」の簡体文字を一応確認した。
■ 心がない愛は愛といえるだろうか、ということ。
■ 文字を変えたのは、邪悪なココロ、邪悪な意図がある、とするYouTubがあった。
■ この文字を変えたばっかりに、この文字ばかりでなく、なぜ変えたか、と。
■ その意図について考えない人も多いだろうけれど、文字が存在する限り
■ また、心のある愛という文字が存在するかぎり、比較され、
■ 知られることになる。
■ 心ある愛から心を取り去ったのはなぜかその理由が考えられることになる。
■ ひとつの漢字だけでなく漢字という文字を捨てた民族もある。
■ 文字のもつ文化を捨ててしまう人の気持ちが分からない。
■ 自分たちの過去を忌まわしてものと自覚し、否定したということか。
■ まあ、いい。
■ 短歌調に31文字で表現すると、
  • 心なき 爱でココロが 知られけり 
  • かの大陸の  うすらわらいの
■ 西行の歌を素に作ってみただけだが、
 5・7・5・7・7、という形式に当てはめることはできそうだ。
  • 心なき身にもココロは知られけり
  • 心なき身にもあはれは知られけり
■ としても何か作れそうだ。

2021年11月15日月曜日

西行・これが表歌か

西行
 
■ 俳句では句会がよくある。
■ 和歌の世界では「歌合」があった。
■ 比較することで分かることがある。
■ 百人一首の「月」を詠んだ歌をとりあげてみよう。
■ これらは歌合わせで彼らが競った歌ではなく勝ち負けはないのだけれど
■「百人一首」の歌としては好き嫌いはあるだろう。
  • 月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど  大江千里
  • 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな  西行
■ 「月見れば」の歌は読みやすいし分かりやすい。
■ 「嘆けとて」の歌は理屈っぽいし、分かりにくい。
■ 「嘆けとて」の歌は次の組み合わせだった。
■ 「自歌合」の場合は、どちらかを選ぶということではないかもしれない。
■ むしろ相互に補い説明しているようだ。
  • 知らざりき雲居のよそに見し月のかげを袂に宿すべしとは  西行
  • 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
■ 藤原俊成は西行から判定を依頼されてこれらについて述べた。
■ 藤原定家は、父・俊成の評を追認する形で、「嘆けとて」の歌を百人一首にとった。
■ 西行最晩年のことだったので、「嘆けとて」が彼の代表作だといえるかもしれない。
■ 他にいい歌もあるのにと言う人も多いだろうし私自身もそう思う。
■ しかし、彼の側に立てばやはりこれが彼が一番残したかった歌だろう。
■ なぜか、そして、定家はなぜこの歌を取り上げたのかだ。
■ 定家は、おそらく、西行の心がよく分かっていたと思う。
■ どちらも恋のうただ。
■ 定家の歌と並べ置いてみれば分かるかもしれない。
  • 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな  西行
  • こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ   藤原定家
■ 西行は「わが涙かな」と自分の身を嘆いている。
■ 定家は「身もこがれつつ」と相手が自分を待っていることを歌っている。
■ かなり対照的だが、・・・
■ それぞれ相手は誰だったのかだ。
  • のりきよ と 待賢門院璋子・たまこ
  • さだいえ と 式子内親王・のりこ
■ 相手はどちらも皇族の人だった。
■ 同じ体験をしていたので分かり、しかも、自分の方が、いわば「勝ち組」だったからだ。
■ このように考えながら読むと「百人一首」物語は面白さ倍増なのだ。
■ 31文字で表されることは限定されるかもしれないが。
■ 幾つも詠むことはできるし、他の人の歌と比較しながら併せ読むこともできる
■ これが和歌・短歌の魅力だ。
■ もちろん31文字で詠みきることができればそれに越したことはない。