万葉集に、紫陽花の歌2首
■ シーボルトの画集の紫陽花は今見る紫陽花とほぼ同じ。
■ 牧野植物図鑑には
- アジサイ
- Hydrangea macrophylla (Tumb.ex Murray)Ser.
- もとガクアジサイを母種として、日本で生まれた園芸種である
■ とある。
■ 万葉集の歌には、
■ とある。当時からアジサイが歌にも詠まれていた。
■ 大伴家持の歌は
- [歌番号] 04/0773
- [題詞] (大伴宿祢家持従久邇京贈坂上大嬢歌五首)
- [原文] 事不問 木尚味狭藍 諸<弟>等之 練乃村戸二 所詐来
- [訓読] 言とはぬ木すらあじさゐ諸弟らが練りのむらとにあざむかえけり
- [仮名] こととはぬ きすらあじさゐ もろとらが ねりのむらとに あざむかえけり
■ これだけではちょっと分かりにくいが5首を読めば分かるだろう。
- 心変わり
- アジサイの色の変化
■ ということのようだ。
■ アジサイを「味狭藍」と当て字しているのは面白い。先の歌では「安治佐為」だった。
■ 大伴家持と相手との関係は今のところどうでもいい。
■ 昔、小野小町の歌の掛詞などの解説を読んで、なるほどうまいものだと感心した。
■ もう一つの歌も併せ読むといいかもしれない。
- 花の色は うつりにけりな いたづらに わがみ世にふる ながめせしまに // 小野小町
- 色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の 花にぞありける // 小野小町
■ 次の歌と比較してみよう。
- はかなくて 過ぎにしかたを 数ふれば 花にものおもふ 春ぞへにける // 式子内親王
■ 「はかなくて」は桜の花のように思う。
■ 「色見えで」の花は、必ずしも桜とは言えないかもしれない。
■ というのも、例えば、
- 色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の アジサイの花 // 遊水
- 色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の 桜なりけり // ??
■ としたとき、桜では何か違和感を感じる。
■ 上の句と下の句が意味的にちぐはぐだ。
■ やはり、
- 桜は散る
■ という感じで、色が「うつろう物」ではない。
■ しかし、定家は桜だとみていたようだ。
- さくら花 うつりにけりな とばかりを 歎きもあへず つもる春かな // 藤原定家
- 参考 : 小野小町 千人万首 (asahi-net.or.jp)
■ 知性あふれる言葉遣いの小野小町の歌と比較すると、いかにも、つまらん歌だが、これで分かる。
■ 式子内親王の上に挙げた歌と比較しても数段落ちる。
■ 定家は何を言いたいのかね。
■ それは、まあ、いい。
■ 他にも派生歌はいくつもあるようだが、アジサイを意識したものはない。
■ 定家の時代は武士の時代であり、小野小町の時代とは違った人生観や価値観があり
■ 時代としても、好みの対象が変わったというべきかもしれない。
■ 定家のように「花」を「桜」と思うのは読む人の勝手だが、小野小町の心や感性としてはどうだろう。
- 昔の人の歌は、かなり論理的、知的だ。
■ 過去の人の評価や価値観にとらわれず、言葉そのものの意味を歌自体から読み取るべきだろう。
- いつの場合も、花を桜とするのは、いかにも単純だ。
■ しかし、定家が、小町の「色見えで」の歌ではなく「花の色は」を百人一首として選んだのは当然だったかもしれない。
■ なぜ定家はこっちを選んだのかが百人一首としては興味あるところだ。
■ 藤原定家は、歌人としてはどうか、かもしれないが、選者としては、違う。
■ それは選手とコーチや監督との違いと同様だ。
■ 後日書いてみよう。
■ 歌を理解するには自分の言葉で作ってみるとよい。
■ 言葉にしたとき、客観的に自分を見ることができる。
■ 自分にとって桜とは何か、花とは何かだ。
■ ついでながら、和歌に現れる花としては、
- 橘
■ にも関心がある。
■ 桜よりも橘の香の方がより官能的だからだ。
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