ふる雨に色移りゆく紫陽花を愛でつつ悲し人の心は
■ 小野小町はうまいなと感心するけれど、どうだろう。色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の 花にぞありける // 小野小町
花の色は うつりにけりな いたづらに わがみ世にふる ながめせしまに // 小野小町
■ 小野小町が百人一首の歌だけでなく、もう一つ作っていた。
■ まとめてひとつでいいじゃないか、と。
■ 私が作ると、もう少し客観的な詠み方になる。
■ と、ここまで書いて、歌を思い出した。小野小町の歌に添えて
ふるあめに いろうつりゆく あじさいを めでつつかなし ひとのこころは // 遊水
■ 昔も今も、つったって、その歌、昔の歌ジャン、今の歌じゃないジャン、
■ 「ジャン」言葉は今の言葉かどうか知らんが、まあ、いいか。
■ ところで
■ これで、小野小町のふたつの歌の心を表しているといえるだろうか。ふるあめに いろうつりゆくあじさいを
めでつつかなし ひとのこころは
■ 「いろうつりゆく」だけで心変わりまで表現できたとは言えないかもしれないし、
■ 「ひとのこころは」の人とは誰のことかということになりそうだ。
■ ただ、小野小町のふたつの歌と併せて読むとどうだろう。
小野小町の歌に添えて■ と詞書をつけてみた。
■ 歌手が歌う歌にも歌詞だけでなく題がある。
■ 詞書は、男と女の話、でもいい。
■ ただ、小野小町が
■ 「人の心の 花にぞありける」ではなく
色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の アジサイの花 // 遊水■ としてくれていたら、おそらく、なんの問題もなかったはずなのだ。
■ そして、定家も他の人たちもそれなりの視点で色々歌を詠んだに違いない。
■ そうすることにより、もっと世界が広がったように思われる。
■ 今回私がこのように変えたことにより、これからの人が小野小町にこだわらず、
■ 自らの歌として紫陽花や他の花を詠んだらいいと思う。
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