2026年3月24日火曜日

「秋の夕暮」考、比較すれば特異性がわかる。

■ 2026-03-24
■ 白州正子の源氏物語に関する言葉について書くか、もう少し「秋の夕暮」について書こうかな、と思ったが、時間の関係で、「秋の夕暮」にしておこう。


■ 小倉百人一首に「秋の夕暮」は良暹の他にもうひとつある。新古今和歌集の、361、362、363、のいわゆる三夕も並べてみよう。
  1. さびしさはその色としもなかりけり 槙立つ山の秋の夕暮れ  寂連
  2. 心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つさわの秋の夕暮れ  西行
  3. 見渡せば花も紅葉もなかりけり 浦の苫屋の秋の夕暮     定家
  4. 村雨の切りもまだひぬまきの葉に 霧たちのぼる秋の夕暮   寂連
  5. 寂しさに宿を立ち出でてながむれば いずくも同じ秋の夕暮   良暹
■ [ 1 ]から[ 4 ]は「秋の夕暮」の様を詠んでいる。その情景が、「さびしい」感じだ、と。
■ ところが、良暹の歌は、彼の心の中が寂しい、と詠んでいる。
■ どこに行っても寂しい、と。
■ 良暹法師の歌はいい歌だとは思わないが素朴だ
■ 定家は自分とは関係ない「浦の苫屋」について詠んでいる感じだが、それがどうした、ともいえる。
■ 「感性」であれば、いわば作者の資質と読む側の好みが左右する。
■ 良暹にとっては、「いずくも」だから、どこでも同じで「秋の夕暮」だろうがどうだろうが関係ない、ともいえる。
■ 対象をとらえる感性などではない。自分が寂しいのだ。
■ その点が他の人とは違う。
■ いわば、現代的な孤独感だといえる。