2022年1月30日日曜日

丸谷才一・新々百人一首

■ 藤原定家の小倉・百人一首ばかりでなく、
■ 丸谷才一著・新々百人一首も結構面白く読んでいる。
■ 丸谷才一は翻訳家や評論家ではあったけれど、
■ 詩歌の作者となる資質はなかったような感じで、
■ 松尾芭蕉の奥の細道も読んでないかもしれないな、と思う。
■ 新々百人一首の「春」の3番目に長々と、「鳥の涙」について書いている。
  • 雪の内に春は来にけり鶯の氷れる泪今やとくらむ // 二条后・藤原高子
■ 人は泣くとき涙を流す。鳥も鳴くので涙も出るだろう、という発想なのだ。
■ 古事記に倭建命が白鳥になって飛ぶ場面もある。
■ 人間にとって空を飛ぶ鳥は、ある時は憧れでもあっただろう。
■ まあ、いい。
■ それで、彼は、
  • 行春や鳥啼き魚目は泪  芭蕉
■ この句にまでも言い及んでいる。
■ しかし、それでいいのかね。
■ 芭蕉については触れない方がよかったようだ。
■ 芭蕉が奥の細道へと旅立った時、見送ったのは4人だった。
  • 山口素堂 「目には青葉山ほととぎす初鰹」の作者で「松島」の詩を送っている。
  • 原安適 歌人、奥の細道を清書した。そして、おそらく「光堂」の歌を追加した人だ。
  • 杉山杉風 魚問屋・鯉屋
  • 中川濁子(鳥金右衛門)
■ 松尾芭蕉が旅から帰って「奥の細道」を書いたのは約5年後だった。
■ この句は、芭蕉の資金援助者に対する挨拶だ。
■ 見送った友達2人と弟子2人の4人にとってはすぐ分かる句だったが、
■ 今では誰も分からないようだ。
■ 芭蕉その人ももはや俳句界ではほとんど注目されてはないようだ。
■ それは俳句や短歌の大衆化がなされてしまったからだろうが、
■ それはおいといて、
■ 松尾芭蕉は人の心がよく分かったので俳諧師で生きて行けたのだが
■ この句を見て、芭蕉の「うまさ」と「あざとさ」を見る思いがした。
■ 人間としての彼は好きにはなれない。
■ この句に疑問を持ったのは、魚は水の中にいるので涙は見られないからだ。
  • 泣く、も
  • 涙、も
■ 別れの時の様子で、行く春を惜しむ、という季節感とよくあっている。
■ しかし、丸谷才一のように、
  • 鳥・鳴く・泣く・涙
■ という発想ではないのは明らかで、魚が泣いている。
■ 芭蕉を買いかぶってはいけない。
■ 等身大で見るからこそ、歌人ではない彼の句の「俳諧味」が分かろうというものなのだ。
■ 泣いているのは魚、即ち、魚問屋 の杉風だ。
■ だとすれば、鳥はもう一人の弟子に決まっている。
■ 句としてはうまい。
■ 分かってみれば駄洒落なのだが、実に、うますぎる。
■ というか、臆面もなく、矢立てのはじめ、などとしている。
■ 5年後に書いたものだから、わざわざこのように書いたのだろう。
■ しかし、自分たちが師匠の俳句に書かれて悪い気はしない。
■ これからも援助しないことはない。
■ 芭蕉は、この句が頭に浮かんだので、奥の細道を書き始めたようだ。
■ このことについては以前書いた。
 

2022年1月24日月曜日

心変わり

 心変わり

■ 和歌や短歌をそのまま翻訳するのは難しい
色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の 花にぞありける // 小野小町

色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の アジサイの花 // 遊水

■ 英語圏で紫陽花の花の色の変化はどうとらえられているのか知らないので、 
■ 次のような散文にしてみた。
 
日本語英語、google 翻訳
 
  • 人の心の中に咲く花の色は
    他人には見えない

  • だから彼の心の中の花の色は

  • 変化する

 
  • The color of the flowers that bloom in people's hearts
    Invisible to others
  • So the color of the flower in his heart
  • Change
 

 

ふる雨に色移りゆく紫陽花を愛でつつ悲し人の心は

 ふる雨に色移りゆく紫陽花を愛でつつ悲し人の心は
色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の 花にぞありける // 小野小町
花の色は うつりにけりな いたづらに わがみ世にふる ながめせしまに  // 小野小町
■ 小野小町はうまいなと感心するけれど、どうだろう。
■ 小野小町が百人一首の歌だけでなく、もう一つ作っていた。
■ まとめてひとつでいいじゃないか、と。
■ 私が作ると、もう少し客観的な詠み方になる。
小野小町の歌に添えて
ふるあめに いろうつりゆく あじさいを めでつつかなし ひとのこころは // 遊水
■  と、ここまで書いて、歌を思い出した。
■ どんな歌詞だったのか。
男と女のお話 - 日吉ミミ (歌詞CC付) - YouTube
作詞 久仁京介 1970-05-05 発売された歌。
■ まあ、昔も今もたいして変わらん恋の歌。
■ 昔も今も、つったって、その歌、昔の歌ジャン、今の歌じゃないジャン、
■ 「ジャン」言葉は今の言葉かどうか知らんが、まあ、いいか。
■ ところで
ふるあめに いろうつりゆく 
あじさいを 
めでつつかなし ひとのこころは
■ これで、小野小町のふたつの歌の心を表しているといえるだろうか。
■ 「いろうつりゆく」だけで心変わりまで表現できたとは言えないかもしれないし、
■ 「ひとのこころは」の人とは誰のことかということになりそうだ。
■ ただ、小野小町のふたつの歌と併せて読むとどうだろう。
小野小町の歌に添えて
■ と詞書をつけてみた。
■ 歌手が歌う歌にも歌詞だけでなく題がある。
■ 詞書は、男と女の話、でもいい。
■ ただ、小野小町が
■ 「人の心の 花にぞありける」ではなく
色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の アジサイの花 // 遊水
■ としてくれていたら、おそらく、なんの問題もなかったはずなのだ。
■ そして、定家も他の人たちもそれなりの視点で色々歌を詠んだに違いない。
■ そうすることにより、もっと世界が広がったように思われる。
■ 今回私がこのように変えたことにより、これからの人が小野小町にこだわらず、
■ 自らの歌として紫陽花や他の花を詠んだらいいと思う。

■ 

2022年1月21日金曜日

彼の心変わり、と、我が容姿

 彼の心変わり、と、我が容姿

■ 小野小町は恋多き女だと言われているが、知性にあふれていた。
  • 花の色は うつりにけりな いたづらに わがみ世にふる ながめせしまに  // 小野小町
  • 色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の 花にぞありける // 小野小町
■ 知的女性が嫌われるのは世の常かもしれない。
■ 藤原定家は小倉・百人一首に小野小町の「花の色は」の歌を取り上げた。
■ 「色見えで」の歌は人の心、というか、相手の心変わりをなじるような歌だが、
■ 「花の色は」は自分を鏡に映しているような歌だ。
■ 定家は、幾つも関連の歌を詠んでいる。
  • さくら花 うつりにけりな とばかりを 歎きもあへず つもる春かな // 藤原定家
  • わが身よに ふるともなしの ながめして いく春風に 花のちるらむ
  • 参考 : 小野小町 千人万首 (asahi-net.or.jp)
■ 幾つも詠んでいるのは、ひとつでは表せない、納得できないからだったのではないだろうか。
■ 定家の「花」は桜以外のモノではなく、桜だから「花のちるらむ」としていて
■ いかにも半端だ。
■ 本質的でなければ納得できるはずもない。
■ 小野小町の二つの歌は、いずれも
  • 色が移る
■ 即ち、色が変化することを詠んでいる。
  • 色が変化する花は何か
■ を考えるべきだろう。
■ 桜ではない。
■ まあ、そういうことだ。
■ 小野小町は「色見えで」の歌を先に作り、その後に「花の色は」の歌を詠んだのかもしれない。
■ 相手をなじるばかりでなく、我を省みたとも考えられる。
■ 定家は小町の女心をとらえきれなかったものと思われる。
■ しかし、取り上げているのは、カンのようなものかもしれない。
■ 「花の色は」の方が百人一首向きだといえる
  • 色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の アジサイの花 // 遊水
■ アジサイは色が変化し、しかも散らない。枯れ残る。
■ 容姿が変化し、いとわしく思っても、老残の身になるのだ。
■ これがアジサイという花の本質的な姿だ。いわば、運命なのだ。
■ アジサイの花を我が身の運命だと気づき意識したならば、
  • 花の色は うつりにけりな いたづらに わがみ世にふる ながめせしまに  // 小野小町
■ と、詠み嘆かざるを得ない。
■ ただ嘆き悲しむばかりでなく、客観的に歌にしたところが、知性であり、
■ 人は皆同じだという認識にもつながる。
■ 定家のように、小町の花が桜だとする人がいても、
  • わがみ世にふる ながめせしまに
■ という感慨は変わらない。
■ 自分は同じだと思っても、時は過ぎ去り、世は移り行くのだ。
■ 

 

2022年1月18日火曜日

万葉集に、紫陽花の歌2首

 万葉集に、紫陽花の歌2首
■ シーボルトの画集の紫陽花は今見る紫陽花とほぼ同じ。
■ 牧野植物図鑑には
  • アジサイ
  • Hydrangea macrophylla (Tumb.ex Murray)Ser.
  • もとガクアジサイを母種として、日本で生まれた園芸種である
■ とある。
■ 万葉集の歌には、
■ とある。当時からアジサイが歌にも詠まれていた。
■ 大伴家持の歌は
  • [歌番号] 04/0773
  • [題詞] (大伴宿祢家持従久邇京贈坂上大嬢歌五首)
  • [原文] 事不問 木尚味狭藍 諸<弟>等之 練乃村戸二 所詐来
  • [訓読] 言とはぬ木すらあじさゐ諸弟らが練りのむらとにあざむかえけり
  • [仮名] こととはぬ きすらあじさゐ もろとらが ねりのむらとに あざむかえけり
■ これだけではちょっと分かりにくいが5首を読めば分かるだろう。
  • 心変わり
  • アジサイの色の変化
■ ということのようだ。
■ アジサイを「味狭藍」と当て字しているのは面白い。先の歌では「安治佐為」だった。
■ 大伴家持と相手との関係は今のところどうでもいい。
■ 昔、小野小町の歌の掛詞などの解説を読んで、なるほどうまいものだと感心した。
■ もう一つの歌も併せ読むといいかもしれない。
  • 花の色は うつりにけりな いたづらに わがみ世にふる ながめせしまに  // 小野小町
  • 色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の 花にぞありける // 小野小町
■ 次の歌と比較してみよう。
  • はかなくて 過ぎにしかたを 数ふれば 花にものおもふ 春ぞへにける // 式子内親王
■ 「はかなくて」は桜の花のように思う。
■ 「色見えで」の花は、必ずしも桜とは言えないかもしれない。
■ というのも、例えば、
  • 色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の アジサイの花 // 遊水
  • 色見えで うつろふ物は 世の中の 人の心の 桜なりけり // ??
■ としたとき、桜では何か違和感を感じる。
■ 上の句と下の句が意味的にちぐはぐだ。
■ やはり、
  • 桜は散る
■ という感じで、色が「うつろう物」ではない。
■ しかし、定家は桜だとみていたようだ。
■ 知性あふれる言葉遣いの小野小町の歌と比較すると、いかにも、つまらん歌だが、これで分かる。
■ 式子内親王の上に挙げた歌と比較しても数段落ちる。
■ 定家は何を言いたいのかね。
■ それは、まあ、いい。
■ 他にも派生歌はいくつもあるようだが、アジサイを意識したものはない。
■ 定家の時代は武士の時代であり、小野小町の時代とは違った人生観や価値観があり
■ 時代としても、好みの対象が変わったというべきかもしれない。
■ 定家のように「花」を「桜」と思うのは読む人の勝手だが、小野小町の心や感性としてはどうだろう。
  • 昔の人の歌は、かなり論理的、知的だ。
■ 過去の人の評価や価値観にとらわれず、言葉そのものの意味を歌自体から読み取るべきだろう。
  • いつの場合も、花を桜とするのは、いかにも単純だ。
■ しかし、定家が、小町の「色見えで」の歌ではなく「花の色は」を百人一首として選んだのは当然だったかもしれない。
■ なぜ定家はこっちを選んだのかが百人一首としては興味あるところだ。
■ 藤原定家は、歌人としてはどうか、かもしれないが、選者としては、違う。
■ それは選手とコーチや監督との違いと同様だ。
■ 後日書いてみよう。
■ 歌を理解するには自分の言葉で作ってみるとよい。
■ 言葉にしたとき、客観的に自分を見ることができる。
■ 自分にとって桜とは何か、花とは何かだ。
■ ついでながら、和歌に現れる花としては、
■ にも関心がある。
■ 桜よりも橘の香の方がより官能的だからだ。
■