2025年9月19日金曜日

枕草子の面白く感じた段、と、つけ句の話

■ 2025-09-19
■ 先にも上げたがもう一度。
■ 大庭みな子の現代語訳・枕草子は池田亀鑑の本を底本にしていて、章段の数え方は、それによっているようなので、目次を開き印をつけてみた。
■ 大庭みな子の選んだ段のうち特に面白く感じたのは
第八二段
第八四段
■ ひところ夫婦の仲だった橘則光はいい奴だと思う。
■ 清少納言と藤原斉信との間のやりとりについて、自分のことのように喜んで翌朝飛んできた男だ。
■ 俺には歌などよこすな、「すべて仇敵となん思ふ」などと言う男だが
  • 仇とも 敵とも思う 歌だとて 心は何か 問わましものを  遊水
■ とでも言ってやればよかったように思う。
■ この頃の歌は、万葉集の歌のような率直な歌い方でなく、掛詞とか本歌取り的、間接的な表現など、過去の歌に関する知識がなければ分かりにくいものが多いようにも思う。
■ さて、清少納言はこの段で「草の庵」とあだ名をつけられ「ここに、草の庵やある」などといわれたが、
■ 島内裕子の本では、第八七段に当たるが「評」のところに「源氏物語を書いた紫式部は藤原公任から、「このわたりに、若紫や候」と尋ねられて困惑した、と、紫式部日記に書き留めている」などと書いている。
■ これに関しては以前、こんな歌をつくっていた。
■ ところで、清少納言が応える前に次の歌があったのか、清少納言が言ったからこの歌ができたのか、

藤原公任 草の庵を 誰か訪ねむ
蔵人挙直 九重の 花の都を おきながら

■ 清少納言と藤原斉信との間のやりとりで、藤原斉信側が何人も寄ってたかって上の句をつけようと考えたが結局できなかったということは、この歌は後からのことではないかという気がするが、どうなんだろう。