■ なぜ「口にあて」たのか。
■ やはり「小石」は「恋し」のようだ。
- 君恋し 小石ひろいて 朔太郎 冷たき石に 口づけにけり
■ こんなことかもしれない。
■ 話変わって、・・・
■ 萩原朔太郎は百人一首の「有馬山~いでそよ人を忘れやはする」を関連付けて読んでいた、と丸谷才一は考えたが、新々百人一首では、
- 遥かなる もろこしまでも ゆくものは 秋の寝ざめの 心なりける 大弐三位
■ この歌をあげている。
■ 塚本邦雄も、新撰小倉百人一首で、同じ歌を取り上げている。そして、
枕上片時春夢中行盡江南数千里これを秋に転じた心であらうか。
秋の寝覚めといえば、・・・恋に哀傷に述懐に、尽きぬ思いを尽くすのはこの時であらう。それらをすべて消して、彼女は頭を上げ、目をみひらいて、清らかな音声で、「はるかなるもろこしまでも行くもの」と歌った。古人も評して「限りなき心」と讃えた。
■ と書いている。一方、丸谷は
「秋の寝ざめ」のアキには「飽き」が秘められてあって、それゆゑ女は男に飽きられたのではないかと不安に思ってゐる。・・・、秋歌と見せかけて実は恋歌なのである。冷え冷えとした秋の夜、夜半の寝ざめに悩みながら女はあれこれと思いつづける。その思いはどこまでもどこまでもはてしない。さながら遠くへだたる・・・
■ 才一は、ねちこい。「はるかなるもろこしまでも行くもの」という調子にはそんなネチ濃さはない。たとえ悩みがあったとしても、しっかり寝たあと、吹っ切れ、冴えている。
■ 遠く異国への憧れは、まあ普通の感情だろうが、大正時代の萩原朔太郎はどうだったのか、確か「フランス」に行けずに背広を買う、といった詩があった。
ふらんすは あまりにとおし 朔太郎 背広を買うて 汽車の旅ゆくあこがれの フランスからも くるひとは いまではおおき ひのもとのくに