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2021年11月11日木曜日

定家と俊成の表歌

 定家と俊成の表歌

 ■ 「表歌」は 「おもてうた」つまり代表作で、俊成・定家親子の自選の表歌はそれぞれ次の歌だ。

  • 藤原俊成 夕されば野辺の秋風身にしみて鶉なくなり深草の里
  • 藤原定家 こぬ人をまつほの浦の夕なぎにやくやもしほの身もこがれつつ
■ 俊成の歌は印象的な言葉遣いではないので読み飛ばされてしまうかもしれないが、・・・
■ 定家の歌の方は百人一首でよく知られている。
■ どちらも昔の歌をふまえて詠まれている。
■ だから彼らは自らの「表歌」としたのだろう。
■ この「だから」という意味は現代と彼らの時代ではまったく違う。
■ 現代では、昔の歌で記録に残っているものは研究されていて書籍やインターネット検索で容易に見られる。
■ ところが彼らの時代には、印刷技術がなく人が手で書き写さなければならなかった。
■ だから昔の歌を多く知っていること、即ち、知識は彼らの評価力という知性を支えていた。
■ 万葉集の歌も現代のようにかな交じり文で読んでいたわけではない。
■ 漢字で書かれていた。
■ 定家はそれを読み解いて自らの歌に置き換えた。
■ 単に置き換えたのではなく、自分たちのこととして歌っている。
■ 俊成の場合は必ずしも自分のことではないように思う。
■ 俊成は伊勢物語百二十三段・在原業平の歌をもとにし、
■ 定家は万葉集・笠朝臣金村の歌をもとにした。
■ 多くの人々が生きてきた。
■ 時の流れの中に人はいる。
■ そして歌が詠まれた。
■ 歌の心を詠み継いでゆくということは大切なことだ。
■ それが言葉であり和歌・短歌だと思う。
■ 自分なりに知ることで今の自分があり次の時代があるように思う。
■ これらの歌を読み、私は次の歌を詠んだ。
  • 藻塩焼き 心焦がして 来ぬ人を 松帆の浦の 夕凪ろかも   遊水
  • 鶉鳴く 伏見の里の なごり今 地名に残る 深草の秋   遊水
■ 時は流れ、人がいなくなっても、心は言葉に残る。
■ 人は心を言葉として文字に込めるのだ。
■ 文字からその心を読み出し自分の歌にすることで理解が深まるかと思う。
■ また、それを読むことでどのように理解したかが分かる。
■ 俊成の歌の「秋」は「飽きる」の「あき」でもあった。
■ それは伊勢物語にさかのぼることで分かる。
■ 同様な意味の掛詞として「あき」を使い次の歌もできる。
  • 夏されば外の遊びもあきの風 さびしさ寄せる人もなき浜    遊水
■ 言葉を文字として定型にすることで、単なる音声として拡散し消えることがなくなり、
■ 覚えやすく記憶として残り易くなる。
■ 忘れても容易に音声として心を呼び覚まし考え感じることができる。
■ 誰にでも使える、定型という言葉の箱
  • 5・7・5・7・7
■ この31文字「みそひともじ」の歌の存在が日本の特徴といえるだろう。
■ 日本語とは何か、そのひとつが定型詩の短歌や俳句だ。
 

2021年11月15日月曜日

西行・これが表歌か

西行
 
■ 俳句では句会がよくある。
■ 和歌の世界では「歌合」があった。
■ 比較することで分かることがある。
■ 百人一首の「月」を詠んだ歌をとりあげてみよう。
■ これらは歌合わせで彼らが競った歌ではなく勝ち負けはないのだけれど
■「百人一首」の歌としては好き嫌いはあるだろう。
  • 月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど  大江千里
  • 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな  西行
■ 「月見れば」の歌は読みやすいし分かりやすい。
■ 「嘆けとて」の歌は理屈っぽいし、分かりにくい。
■ 「嘆けとて」の歌は次の組み合わせだった。
■ 「自歌合」の場合は、どちらかを選ぶということではないかもしれない。
■ むしろ相互に補い説明しているようだ。
  • 知らざりき雲居のよそに見し月のかげを袂に宿すべしとは  西行
  • 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
■ 藤原俊成は西行から判定を依頼されてこれらについて述べた。
■ 藤原定家は、父・俊成の評を追認する形で、「嘆けとて」の歌を百人一首にとった。
■ 西行最晩年のことだったので、「嘆けとて」が彼の代表作だといえるかもしれない。
■ 他にいい歌もあるのにと言う人も多いだろうし私自身もそう思う。
■ しかし、彼の側に立てばやはりこれが彼が一番残したかった歌だろう。
■ なぜか、そして、定家はなぜこの歌を取り上げたのかだ。
■ 定家は、おそらく、西行の心がよく分かっていたと思う。
■ どちらも恋のうただ。
■ 定家の歌と並べ置いてみれば分かるかもしれない。
  • 嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな  西行
  • こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ   藤原定家
■ 西行は「わが涙かな」と自分の身を嘆いている。
■ 定家は「身もこがれつつ」と相手が自分を待っていることを歌っている。
■ かなり対照的だが、・・・
■ それぞれ相手は誰だったのかだ。
  • のりきよ と 待賢門院璋子・たまこ
  • さだいえ と 式子内親王・のりこ
■ 相手はどちらも皇族の人だった。
■ 同じ体験をしていたので分かり、しかも、自分の方が、いわば「勝ち組」だったからだ。
■ このように考えながら読むと「百人一首」物語は面白さ倍増なのだ。
■ 31文字で表されることは限定されるかもしれないが。
■ 幾つも詠むことはできるし、他の人の歌と比較しながら併せ読むこともできる
■ これが和歌・短歌の魅力だ。
■ もちろん31文字で詠みきることができればそれに越したことはない。
  

2022年5月7日土曜日

紀貫之・その2、恋の相手は誰だったのか

 紀貫之・その2

■ 表歌、即ち、代表歌は作者と第三者では評価が違う。
■ 百人一首で定家は「人はいさ心もしらずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける(古今42)」を選んでいる。
■ この歌は貫之としては単なる、やりとりの歌、に過ぎなかったかもしれない。
■ 古今和歌集は貫之が選んだのだからそこに彼自身の代表かがあってもおかしくない。
■ 最後を飾っているのが、「道しらば」の歌だ。
  • 道しらば摘みにもゆかむ 住江のきしに生ふてふ恋忘れぐさ  つらゆき
  • その場所を 訪ねてみんか ひとり我 恋や忘るか ユウスゲの花   遊水
■ 彼の恋の相手は誰だったのか
  • 逢ふことは雲ゐはるかになる神の音に聞きつつ恋ひ渡るかな(古今482)
  • 色もなき心を人にそめしよりうつろはむとは思ほえなくに(古今729)
  • 玉の緒のたえてみじかき命もて年月ながき恋もするかな(後撰646)
■ 藤原定家や西行と同様で、皇族の人だろう。
■ 「逢ふことは雲ゐはるか」ということだから、片思いでしかなかったようだ。
■ だからだろうけれど、「道しらば」の歌には切実感が感じられない。
■ 「恋忘れ草」を摘んだところで、忘れるとも思えないし、それほどの問題でもない感じだ。
■ だいたい「恋」しか関心事はないのかと思うが、
■ それが当時としては歌の題材としての関心事、風潮だったのだろう。
■ ところで、相手探しは可能かどうか、彼の歌をすべて検討し、
■ 当時の可能性のありそうな女性を取り上げて、消去法で残ったひとであるかもしれない。
■ このようなことで、和歌の世界をよく知ることができるかもしれない。
■ 紀貫之の歌は
  • 勅撰和歌集に 435首
  • 古今和歌集のみでは 101首
■ のようだ。

2026年7月22日水曜日

雨乞の 雨之香来山 洗い干す 白いころもに はつなつのかぜ   遊水


■ 2026-07-24
■ 2026-07-22
■ 言葉は最初は音声と手振りなどであったかもしれない。
■ 文字を持つことで音声を記録できるようになった。
■ 記録により、時と空間を超えることが可能になった。
■ 言葉は情報であり、事実の他、心、気持ち、心情、考え想像である。
■ 詩歌は、最初は祈りであったかもしれない。
■ このあたりのことを厳密に論述しようとは思わない。
■ ただ詩歌に関して、日本人の文化、心や事実、環境などを理解したいと思う。
■ 万葉集は日本の最初の歌集だとされている。
■ 歌は、まとまった歌集でなくとも、古事記にもあるし、あるいは、他の書物にも見られることと思う。
■ 日本語は、漢字を取り入れたことで、今日にいたる文化を作り上げた。
■ 最初は「ことば」を表音文字としての漢字で表した。
■ ここで取りあげる、持統天皇の歌がひとつの例だ。

春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山
はるすぎて なつきたるらし しろたへの ころもほしたり あめのかぐやま

■ 漢字だけで書き写すには手間がかかるので、平安時代には、いわゆる、万葉仮名が考えられ、使われた。漢字、ひらがな、カタカナ、の混合文が日本語の特徴だ。
■ 新古今和歌集では、

春過ぎて夏来にけらししろたへの衣ほすてふあまのかぐ山

■ 百人一首では「衣ほすてふ」としているが、大きく誤解させることになった。原文にない「てふ」にしたことで何か言い伝えでもあったかのようにとらえられた。
■ また、「天之香来山」を「天の香具山」とし、「あめのかぐやま」を「あまのかぐ山」としているところは非常によくない。本質的な理解を妨げることになってしまった。
■ 藤原定家という偏狭な一介の老歌人による無理解が原因だっただった、と指摘したい。
■ 「白妙」「白栲」の違いもある。
■ これらについては、おいおい書くとして、馬場あき子はこんなことを書いている。
「この歌を読みながらふと思うのは「春過ぎて」という初句はなぜ必要だったのか、ということだ。「夏は来ぬ」ではじまっても一向におかしくない。」
■ 歌人らしい指摘で面白いと思った。31文字のうち、5文字を使っているのだから、他に表現もあるだろうともいえる。「春過ぎて」を使わない歌を提示してくれたらよかったと思う。
■ おそらく、当時「初夏」という言葉がなかったのだろう。

はつなつの かぜとなりぬと みほとけは をゆびのうれに ほのしらすらし  八一

■ 会津八一のこんな歌を思い浮かべた。
■ 私は、持統天皇の歌を参考にして歌を作たこともあるので、いろいろ見方もあるかと思う。
 
夏過ぎて 秋は来にけり 枯葉散る ・・・

■ 季節がゆっくり過ぎてゆく感じがある
■ 八一は仏像を見ながら夏が来たようだな、と感じた。持統天皇は、白妙能 衣乾有 と乾燥させている白い衣を見て、そろそろ夏だな、と感じた。八一はただ仏像の姿に思いを寄せたが、持統天皇の気持ちというか歌の心は何だったのか。

〇    〇    〇

■ 「天」が使われている天皇は二人しかいない。天智天皇、天武天皇、そして、持統天皇は天武天皇の妻であり天智天皇の娘だ。これらの名前は奈良時代につけられた。要するに、そのように評価されたということで、持統天皇は親によって作られた国を維持した政治家だった。また、天智天皇の父親の舒明天皇の「国見の歌」として知られる万葉集の二つ目の歌は天乃香具山からの眺望を歌っている。あるいは、孫にあたる持統天皇も一緒に登ったことがあったかもしれない。
国土地理院の地図では、奈良盆地の南東端にある丘は、大和三山と呼ばれ、次のように高さも書かれている。

152 m 天香久山
199 m 畝傍山
140 m 耳成山

「天香久山」の高さは海抜 152 mだが、近くの道路を基準にすれば、65 m の高さで「天・てん」とは何の関係もない平凡な丘で、山というほど高くない。 第十二代、景行天皇の頃は、「古事記」のヤマトタケルの歌に、比佐迦多能 阿米能迦具夜麻、とあるように、「あめのかぐやま」と呼ばれていた。
■ 持統天皇は「天之香来山」としているが、これをなぜ「あめのかぐやま」とするのか、「あめのかくやま」ではないのか、むしろ国土地理院の「天香久山」の方が「天の香具山」より正しい。ここでも「天」を「あま」と呼んではならない。あくまで「あめ」だ。
■ 日本書紀に、
日本書紀、神代上、第七段の、天照大神が石窟に隠れた場面を見ると、・・・
思兼神、深謀遠慮、遂聚常世之長鳴鳥使互長鳴。亦、以手力雄神、立磐戸之側、而中臣連遠祖天兒屋命・忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇眞坂樹、而上枝懸八坂瓊之五百箇御統、中枝懸八咫鏡 
とあり、ここでも天香山が見られる。掘天香山之五百箇眞坂樹、このように眞坂樹を掘り起こしている。眞坂樹は榊だろう。古代の人は榊の香りを特別な香りとしてとらえていたようだ。地名とか物の名とかは古ければごく単純に、というか純粋に、具体的な特性を意味している。香りの高い植物であり長寿のものとしては「樟」がある。神社には、樟が植えられていることも多い。日本書紀にあるように、天香山には、榊がたくさん生えていたようで、天照大神が岩戸に隠れたとき、この木が使われた。このようなことから神の木として「榊」文字が作られたと考えられる。
本榊は花の匂いが穏やかで甘い香り、ヒサカキは独特で強い匂いを持つ。
榊の匂いを嗅ぐ、ことの連想から「かぐ」「香具山」と呼ばれる」ようになったのかもしれない。
■ 藤原定家(1162年 - 1241年)が生きた時代は、持統天皇( 645年 - 703年)と、約500年の隔たりがある。この隔たりが持統天皇の気持ちを理解できなくした。定家は持統天皇の歌にある「天之香来山」を見たのだろうか、ただ想像しただけだろうか、あるいは歌としての調子が気になっただけかもしれない。現地に行かず伝聞的に「てふ」としたものだから、何かがあったと思う人も出てきた。昔の人の歌は素朴な現実を歌っている。
「百人一首」という世界から見ている限り、500年前の人の気持ちは分からない。まして、世の中を統治する天皇の考えには思いが至らないのだろう。
■ 飛鳥時代における持統天皇の治世をどの程度知っているのか。
飛鳥時代
奈良時代
平安時代
と過ぎ、定家が百人一首を編纂したのは鎌倉時代になってからだ。
■ 天智天皇の歌は稲の実りの喜びの歌だ。国にとって、農作が重用だった。
■ 日本書紀には持統天皇が「雨乞い」の儀式をしたとある。
■ 稲作にとって天候が重要だが、天気は人の力ではどうしようもない。ただ祈るばかりだ。為政者の持統天皇は、春が過ぎ、夏が近づき天気が気になったと思う。
■ 「天之香来山」は祈りの場、高台だ。そのふもとに民が粗末な白い衣を干しているのを見て、今年は雨乞いをせずに済むかどうか気になった。

民人が 衣洗いて 干したるか 木の間に 白く夏は来にけり  遊水
春過而 
夏来良之 
白妙能 
衣乾有 
天之香来山
■ ここまで書いて、「はつなつ」を思い出した。自分だったら歌にできるのか。

雨乞の 雨之香来山 洗い干す 白いころもに はつなつのかぜ   遊水




2022年2月28日月曜日

私バカよね、と、A Fool Such As I

 私バカよね、と、A Fool Such As I

■ ちょっと比較してみよう。
■ 「こころのこり」があるのかないのか、・・・
■ 妹が買っていたレコードの Doris  Day の love him などよく聞いた。
■ 自分で積極的に何かを、ということでなかった。
■ 百人一首には恋の歌が多い。
■ 恋の歌とか愛の歌があるのは
■ それが人間社会のごく基本的なあり方の単位だからだ。
■ 色々な社会・政治形態があるなかで、
■ 個々人が思うことは様々だろうけれど、
■ 恋や愛が共通のものだとすれば、恋や愛について
■ その心が言葉になり歌になり歌われる。
■ 詞と曲、これが歌になるのだけれど、曲は調べであり、
■ 和歌、短歌で言えば、5・7・5・7・7にあたる。
■ 曲がないのは、言葉の多様性があるからで、
■ 曲の必要性がないからだともいえる。
■ そこに言語の深さがある。
■ 逆に曲を必要とするのは、言葉に深みがないからだとも言える。
■ 言葉の歴史が浅いからだといえる。
■ このあたりについてはまた後で書くことにする。
■ さて、
■ 恋や愛が共通のものだとすれば
■ 言葉によってどのように表されるかを比較するのがいい。
■ 共通のものなのに、いくつも歌われ続けるのは、ひとつは
■ 障害となるものが存在するからだ。
■ それが社会だ。
■ 恋や愛の歌の中にその社会が存在する。
■ そして、個々人の意識がみられる。
■ これらについて色々な歌を歌ってみればいいのだが、まあ、いい。
■ 今回取り上げた
■ 英語の歌詞に、・・・
  • You taught me how to love
  • And now you say that we are through
■ こんな部分がある。
■ 和歌にみれば、
  • あひみての のちのこころに くらぶれば むかしはものを おもはざりけり // 藤原敦忠
  • きみにより おもいならひぬ よのなかの ひとはこれをや こひといふらむ   在原業平
  • あふまでの おもいひはことの かずならで わかれぞこひの はじめなりける  寂蓮
■ これらの歌については先にもどこかに書いた。
■ 音楽としての歌の場合、歌手や歌い方や演奏にも左右される。
■ 歌手によりヒットする場合もある。
■ 和歌や短歌の場合左右されない。
■ 調べが言葉そのものにあるからだ。
■ 5・7・5・7・7という形は同じでも音声として発するき調べがでてくる。
■ 共感し、自分の言葉として心の中に入ると、たとえ音痴であろうとも
■ 自分の心として言葉にすることができる。
 

2026年3月10日火曜日

みやこへは さんりのみちの ゆきかえり  いずこもおなじ あきのゆうぐれ  遊水、2026-03-16、03-19、03-22 追記



■ 2026-03-22
■ 2026-03-14
■ 表題を改めた。
  • 喧嘩して 別れるなんて 嫌だから 愛は要らない お酒が欲しい 遊水、2026-03-12、03-13,-14 追記
Bing 動画 二人でお酒を ( 梓みちよ )日本語の歌詞付き
それでもたまに さびしくなったら
ふたりでおさけ のみましょうね

■ 2026-03-10
■ 梓みちよが歌っている。
■ 聞いていて、一首浮かんだ。
  1. 喧嘩して 別れるなんて 嫌だから 愛は要らない お酒が欲しい  遊水
  2. 傷ついて 別れるなんて 嫌だから 愛は要らない お酒が欲しい  遊水
■ [ 2 ]でなく、[ 1 ]の方がいいような。
■ 人は、「さびしくなったら」どうするのか。

◇     ◇     ◇

■ さて、・・・
■ 百人一首などの解説を見ていると、「そうかなあ」と思うことがある。
■ その一つがこれ、・・・
  • さひしさにやとをたちいてゝなかむれは いつくもおなし秋のゆふくれ 良暹法師
■ どんな状況でさびしく感じるのか。
■ 秋の夕暮れがさびしいとも、まして、「秋の夕暮れ」だからさびしいとも限らない。
■ 寂しいときはさびしい。

そらたかく いろどりたのし あきのひび  遊水
うかれでて さびしくかえる さくらかな  遊水
さみしくて さくらふぶきの なかにたつ  遊水

■ 江戸時代に、尾﨑雅嘉は、次のように書いている。
歌の心は余りにも物淋しさに我が宿を出でてあちこちを眺め渡せば、ここもかしこもさして変わる事もなう、おなじやうに淋しき秋の夕暮れの景色ぞといふ事なり。
■ 島津忠夫は、・・・
あまりのさびしさに耐えかねて、庵を立ち出て、あちこち見わたすと、どこもかしこも同じで、心を晴れ晴れさせるものはない。 なんとさびしいながめの秋の夕暮れの景色よ。
■ 島津は尾﨑の解説に「心を晴れ晴れさせるものはない」と追加しているが、ほとんど同じだ。
■ もう少し、他の人はどのようにとらえているかみてみよう。

歌人  
草も木も枯れ枯れになる秋。 寂しさに僧庵を出て四方のけしきを眺めてみると、あきの夕べはどこも同じで、すべてが枯れ衰え、身も心も細りゆくような思いである
詩人
あまりのさびしさに庵を出て
ぐるり あたりを眺めわたした
なにもない
誰もいない
どこもかしこも
さびしさだらけ
秋の夕暮れが
ただぼうぼうと ひろがっていた
小説家
何とはないさびしさが
そぞろ 身を噛む秋の夕
たまらなくなって
家を出てあたりを見れば
どこも同じ
ひといろに
ものさびしい秋の夕暮れ

■ これらに共通するのは、・・・
  1. うちを出て、あたりを見渡した。
  2. 秋の夕暮れは寂しい。
■ 白州正子は次のように」書いている。
いかにも俊成・定家の好みそうな幽寂の境地を歌っており、・・・、百人一首の世界もついに墨絵のような心境に至ったかと思うと、おのずと感慨が湧く。・・・、洛北大原に住んでいたらしく、「朧の清水」を詠んだ歌が残っている。今も、・・・「大原御幸」にも謡われた名水である。そういうことを心に置いて味わってみると、大原あたりの景色が彷彿とされ、浮世を離れた庵の有様が浮かぶ。・・・、秀歌として賞玩されたのであろう。
■ ここで一応、白川静・「字通」を開いて見た。
    寂。さぶ。セキ、ジャク。しずか、さびしい、やすらか。
    「人の聲無きなり」
    寂寥。セキリョウ。老子・二十五。
■ 「老子」を本棚から取り出すのは、久しぶりだ。傍線を引いた箇所がいくつかある。

有物混成、先天地生。
寂兮寥兮、獨立不改、周行而不殆。
可以爲天下母
■ 現代社会においては、孤独というか、心静かな世界を求める人も多いかと思うが、・・・
■ 白州正子は「能」に造詣が深く、このように感じたのだろう。しかし、買い被り過ぎのようにも思える。
■ 「淋しくなったら」どうするか、ということが元にある。
■ 人は、普通、朝起きて、夜は寝る。だったら、いつ起きたのだろう。結論を急がず、いくつか自問してみよう。
何時に起きたのか
いつ、さびしさを感じたのか
歌を詠んだのはいつなのか
やどを立ち出でて 何をしたのか
あるいは、どこに行ったのか
うちに戻ったのはいつなのか
うちを出て、戻るまで何時間あったのか
その間どのように過ごしたのか
いづくも、とは、2ヶ所以上だから、どことどこ、で、何を見たのか
ながむれば、とあるが、それは風景なのか
■ 歌を詠んだのは夕暮れ時だった。
■ 「家を出てあたりを見れば」や「僧庵を出て四方のけしきを眺めてみると」とか「庵を出て ぐるり あたりを眺めわたした」のなら、わざわざ外に出なくとも「障子を開けるだけでもいいんじゃないの。
■ 分かりやすく、次のように書いて、比較してみてもいい。
寂しさに 宿を立ち出で 眺めれば いずこも同じ 秋の夕暮れ
寂しさに ・・・・・・ 眺めれば いずこも同じ 秋の夕暮れ
寂しさに 障子をあけて 眺めれば いずこも同じ 秋の夕暮れ
■ 「たち・いでて」は、・・・
うち・いでて
こぎ・いでて
■ このような言葉と同類で、行動を表す。
■ 「旅立つ」という言葉があるように、家を出てどこかに行ったことが、この言葉で分かる。 寂しさを紛らわすために何かを求めようとした行為がある。 一人だから寂しい。 人々を求めて雑踏の中を歩いたのか、風景を見ただけだとは思えない。
■ 家を出てすぐあたりを見回したわけでも、見渡したわけでもない。
■ 何かをした後、うちに帰ってから歌にした、と考えていい。
■ 和歌は抒情詩であるが、言葉は本来論理的であると考えられる。
■  起きたのは朝であることに間違いはない。 だとしたら、起きて、歌を詠むまで時間経過がある。
■ 歌の言葉を見てみよう
さびしさに       理由
やどを たちいでて   行動開始・起点
ながむれば       行動
いづくもおなじ     結果、感想1
あきのゆふぐれ     時刻・終点、と、感想2
■  帰宅したのは、夕方だが、出発したのは、あさ早くではなく、朝食後しばらくしてからだろう。 九時頃かもしれない。 あるいは、急に思い立ったのではなく、一人暮らしなので、日頃感じていたことかもしれなく、もう少し早めだったかもしれない。 いずれにしても、昼前だったろう。 相当の時間経過があったと考えられる。 なぜなら、あちこちに行ってみないと、「いづくも おなじ 」という感想を得られないからだ。
■ 「ながむれば いずくもおなじ」と詠んでいるのだから、いつも見ている、日常的に目に入る所ではないはずだ。 いつも見ている場所を「いずくもおなじ」というはずはない。 住んでいるところは山里で元々寂しいところなのだ。内を出てすぐ見渡したのであれば、「いずくも」ではなく、「いつもと同じ」だろう。
■ 先にあげた、彼らの歌の解釈に共通するのは、2点だった。
  1. うちを出て、あたりを見渡した。
  2. 秋の夕暮れは寂しい。
■ [ 1 ]、即ち「うちを出て、あたりを見渡した。」わけではない。
■ 「眺めれば」とあるので、誤解のもとになった、ともいえる。
■ 良暹法師の詠み方が、すなお過ぎた、というか、読む人の側から考えてなかった。
■ 「秋の夕暮れ」とあるので「眺めた」ことが分かるので「眺めれば」と書く必要はない、とみることもできる。
■ 例えば、つぎのように置き換えてみよう。
寂しさに 宿を立ち出で 眺めれば いずこも同じ 秋の夕暮れ
寂しさに 宿を立ち出で ・・・・ いずこも同じ 秋の夕暮れ
寂しさに 宿を立ち出で 道行けば いずこも同じ 秋の夕暮れ
■ 書き換えても、どうというコトはない。 かわりばえはしない。 
■ だいたい、自分が寂しいからといって頭から寂しいなどと、まあ好きにしてくれということではある。
■ 歌を、詠むというコトは、読む人がいるというコトだから、詠む側にも問題がある。
■ しかし、昔の歌で、すでに存在しているだから、責めたところで、どうしようもない。
■ なので、どのように読み、自分のコトとしてとらえるかという読む側のことだ。
■  次は、[ 2 ]について、だが、・・・
■ やどを立ちいでる前に「さびしさに」とあるから、「秋の夕暮れは寂しい」が初めからあったわけではない。
■ 白州正子が書いているように、良暹法師は、「洛北大原に住んでいた」「浮世を離れた庵の有様」なので、一年中寂しく感じることはあったはずだ。
■ 都の北三里、八瀬村の北の大原の「大原」とはどんなところか、位置的には、
一里は3.92727km、約4km、
一キロメーターを十五分で歩くとすれば、四キロメーターは約一時間、
三里の道は約三時間。 都までは、日帰りできる距離だ。
■ この点に注目するのがいい。
■  要するに、寂しかったので、寂しくない所と思える、人も多く、賑やかな京都の街に出た。 とみるのが普通だろう。
■ 「寂しさ」や「淋しさ」は孤独と関係があり、孤独に耐えられないときに感じる精神状態というか、そんな状況だと解するのが一般的ではないだろうか。
■ ごく簡単に言えば「人恋しさだ」
■ 島津の解説に「心を晴れ晴れさせるものはない」とある。
■  寂しさ、の逆の表現として、気晴らしに、としてみても大した変わりはない。 秋に限られたことでもない。
気晴らしに 梅田の街に 出てみても 知る人もなき 夏の暑さよ
賑わいの 梅田の街に ふらり出て 疲れて帰る 秋の夕暮れ 
■ 良暹法師の寂しさは、必ずしも季節とは関係ないが、
■ 「秋の夕暮れ」が寂しい、とすれば「寂しさに」という必要はない。
■ 行動とその結果について書けばいい。
  • ・・・・・ ・・・・・・・ ・・・・・ いずこも同じ 秋の夕暮れ
  • みやこへは さんりのみちの ゆきかえり いずこも同じ 秋の夕暮れ
■ 洛北から片道3時間、往復6時間をかけて、京都に歩いて行った。 帰宅したときは夕暮れ時だ。 疲れた。 行ってみても、知る人もいないし、貧乏な坊主だから、金もない。 うまいものを喰ったわけでも、珍しいものがあったわけでもない。 寂しさを紛らわすものはなく、変わりがなかった。
■ 心を満たすものを目標に、例えば、女の人なら「お洋服を買いに」というような目標をもって行ったのではなかったのだろう。
■ せいぜい、団子でも食おうかというぐらいのことだ。
■ ただ、「寂しさに 宿を立ち出でて」みただけのことなら、何もあろうはずもない。
■ 寂しさの原因は何かを意識していない。
■ 「寂しいので 外にでたら 寂しかった」というのは、いかにもおかしいので「都に出ても寂しかった」とした。
  • 寂しさに 宿を立ち出で 眺めれば いずこも同じ 秋の夕暮れ
  • みやこへは さんりのみちの ゆきかえり いずこも同じ 秋の夕暮れ  遊水
■ 並べてみると、一応、これでもいいかな、とも思う。
■ しかし、「ゆきかえり」だとすれば「都までの道中が」ということにもなってしまうので問題ではある。
■ 「いずこも同じ」の「いずこ」は「洛北」と「都」となる。
■ そして、何が「同じ」なのか。
■ 「洛北」と「都」で「寂しさ」を感じたのが同じ、同じように感じたということだ。
■ 人は、時代・気象、あるいは、歴史・風土の中にいる。どこに行こうと、その中で生きることになる。受け入れるしかない、というコトは、ある。
■「いずこも同じ」を「あちこち」ととらえるのでなく、
地方、と
都市。
■ 過疎地・山村、と、街・商業地など、どこに住んでも、寂しさは「寂。さぶ。人の聲無きなり」で、孤独は寂しい、ということだろう。それを超えれば「寂然不動」即ち、ひたすらに、その境地に赴きゆくこと、になることもできるのかもしれない。
■ 鎌倉時代の戦のあとの室町時代は、「無」とか「禅」、「能」が流行ったようだ。鎌倉時代初期の藤原定家は、白州政子がいう、そこまでの感慨に至ってなかったように思われる
■ 自分を社会の一員、すなわち、中にいると寂しい状況は発生すると思われる。しかし、自分の世界があり、他の、外界に無関心であれば寂しさは感じないだろう。寂しさにはそんな側面がある。
■ ごちゃ、ごちゃ、と書き過ぎたかもしれない。
■ 誰でも感じる「寂しさ」とか、誰でも出会う「秋の夕暮れ」なので、とらえやすい歌だから、歌として、というより「言葉の意味」の面から書いた。
■ 歌は、というか、言葉は本来論理的であるはずなので、ごく常識的にとらえた方がいい。
■ 以上だが、改めて読んでみるといい。優れた歌とは言えないが、すなおに心を表した親しみやすいう歌だと思う。57577にしていえば、・・・
  • 寂しさは 誰でも同じ 秋の暮れ 知る人もなき 雑踏のなか  遊水
  • さひしさにやとをたちいてゝなかむれは いつくもおなし秋のゆふくれ 良暹法師

2022年12月31日土曜日

百人一首、最初の歌

■ 「天」とか「智」という文字で彼を現わすのは、そう呼んだ時代の評価だ。
■ 百人一首の選者が「藤原」姓なので、天智天皇を最初に挙げたのかもしれない。
■ どこかに書いたような気がするが、
■ 個人的に私は、天智天皇は暗殺者であるので、好きになれない。
■ まあ、そんなことはおいといて、・・・
■ 当時は農業は基本的に国の支えだった。
■ 彼の歌が、「白洲正子・私の百人一首」に説明しているようなことだったとしても、
■ 天皇自ら、手で植え、刈り取りをしたという事実もあったととらえてもいいように思う。
■ まあ、ちょこちょこと、ゴム長はいて、儀式的に示したに過ぎないことであったとしても、当時としては、態度で示す効果はあったのではないだろうか。
■ この歌で、農業の大切さを表したという意味は十分ある。
■ 歌として、存在価値はあるように思う。

2023年2月3日金曜日

漢字で書けば「ゆうなぎろ」は「夕凪色」

■ 昨日、YouTube を見ていたら、横っちょに勝手に出てくる動画がある。
■ 今、よく見られているのが出てくる、というコトか。
■ それとも、見る側の傾向を勝手に判断して絞り込みなのか、どうでもいいが、・・・
■ ↑、こんな動画があった。
■ 日本語で難しい「カタカナ英語」はよく言われるけれど、確か「ナカ国」姉妹も話していたような。↑
■ これらと、
  • 何の関係あるねん
■ と、思わんでもないが、

2026年4月6日月曜日

翻訳ソフトで英語にして、その英語を Copilot に訊いてみた。

 If Cleopatra did not exist in the world, men's hearts would be at peace. どういう意味ですか

和夫さん、この英語の文は 直訳するとシンプルですが、
含まれているニュアンスはかなり深い表現です。


🌿 文の意味(核心)

「もしクレオパトラという存在がいなかったら、男たちは心乱されることもなく、平穏でいられただろう」

つまり:

  • クレオパトラは“男の心を乱すほど魅力的な女性”
  • 彼女の存在が歴史を動かし、争いや混乱を生んだ
  • だから「彼女がいなければ世界はもっと平和だった」という皮肉・比喩

という意味になります。


🌙 背景にある文化的ニュアンス

クレオパトラは歴史上、

  • 美貌
  • 知性
  • 政治力
  • 男たちを惹きつけるカリスマ

で知られ、
カエサルやアントニウスの運命を変えた女性として語られます。

そのため古くから文学では、

“一人の女性の魅力が世界を動かす”

という象徴として扱われてきました。

この文もその系譜にあります。


🔥 文のトーン:皮肉+賛美

この文は単なる批判ではなく、

  • 「男たちは彼女に夢中になりすぎた」
  • 「それほど魅力的だった」

という 半ば賛美を含んだ皮肉 です。


🌺 まとめ

  • 表面的には「クレオパトラがいなければ男は平和だった」
  • 実際には「彼女は男の心を乱すほど魅力的だった」という比喩
  • 歴史を動かすほどの女性の象徴としての表現

もし和夫さんがこの文を

  • 文学的に読みたいのか
  • 歴史的背景から読みたいのか
  • あるいは引用元の文脈を知りたいのか

どの方向でもさらに深く掘り下げられます。



和夫さん、文学的に読むとなると、この一文は
**「クレオパトラ」という固有名詞を使った“寓意的・象徴的表現”**として理解するのが核心になります。
ここでは歴史上の人物というより、文学的記号としてのクレオパトラが働いています。


🌙 1. クレオパトラ=“世界を乱すほどの魅力”という象徴

文学では、クレオパトラはしばしば

  • 美貌
  • 知性
  • 魔性
  • 政治をも動かす力

の象徴として扱われます。

つまり、この文は

「一人の女性の魅力が、男の心を揺さぶり、世界の秩序さえ乱す」

という古典的なモチーフを踏まえています。

これはギリシャ悲劇から中世文学、近代文学まで続く
**“ファム・ファタール(運命の女)”**の系譜です。


🌊 2. 文の構造:仮定法による“世界の別の可能性”

“If Cleopatra did not exist…”
という仮定法は、単なる条件ではなく、

  • 歴史の“もしも”
  • 世界の構造そのものを揺るがす想像

を提示します。

文学的には、これは

「一人の存在が世界の運命を変える」

という“個と世界”の関係を詩的に示す手法です。


🔥 3. 「男の心が平和になる」=欲望・権力・混乱の象徴化

“men’s hearts would be at peace”
は、単に恋愛の話ではありません。

ここでの“men”は

  • 男性一般
  • あるいは“権力を持つ男たち”
  • さらには“人間の欲望”そのもの

を象徴します。

つまり文学的には、

「欲望がなければ争いは起きない」
「魅力は世界を乱す力を持つ」

という寓意が込められています。


🌹 4. 文のトーン:皮肉・嘆息・賛美が同居

この文は、単なる批判ではなく、

  • 彼女の魅力への賛美
  • その魅力がもたらす混乱への皮肉
  • それでも惹かれてしまう人間の弱さへの嘆息

が同時に存在しています。

文学的には、こうした多層的な感情の重なりが
この一文を豊かにしています。


🌌 5. 文学的読みのまとめ

要素 文学的意味
クレオパトラ “世界を動かす魅力”の象徴
男の心 欲望・権力・弱さの象徴
平和 欲望が鎮まった理想状態
仮定法 世界の別の可能性を示す詩的手法
全体のトーン 賛美+皮肉+嘆息の混合

🌿 結論

この文は、
「魅力というものは、世界を乱すほど強い力を持つ」
という人間存在の本質を、
クレオパトラという象徴を通して語った文学的表現です。


和夫さん、もしよければ次は

  • この文を“詩的に”読み解く方向
  • クレオパトラ像の文学史的変遷
  • 同じ構造を持つ日本文学の例(例:小野小町、夕顔など)

どれかを深めてみませんか。



和夫さん、ではこの一文を詩として読む方向に舵を切りましょう。
文学的読解よりさらに一歩踏み込み、
**言葉の奥にある“情緒の構造”**を読み解く作業です。


🌙 1. この文は「嘆息」から始まる詩

If Cleopatra did not exist in the world, men's hearts would be at peace.

この文を詩として読むと、まず聞こえてくるのは
**深い嘆息(ためいき)**です。

「はあ……もしクレオパトラなんていなかったらなあ……」

という、
どうにもならない魅力への降参の息。

詩はしばしば、
“言葉にならない感情の余韻”から始まります。
この文もまさにその型です。


🌹 2. クレオパトラ=“世界を乱す美”の象徴

詩的読解では、クレオパトラは歴史人物ではなく、

  • 美
  • 魔性
  • 運命
  • 破滅
  • 甘美な混乱

といった抽象的な力の象徴になります。

つまりこの文は、

「美とは、世界を乱す力である」

という詩的真理を語っている。


🌊 3. 「男の心が平和になる」=“静けさ”という失われた理想

“peace” は単なる平穏ではなく、
詩的には “静けさ・無欲・透明な心” を意味します。

つまりこの文は、

美が現れると、人の心は透明さを失う
魅力は、心の湖面に波紋を投げかける

という、
美と心の関係を描いた詩なのです。


🔥 4. この文の詩的構造:対比の美学

詩として読むと、この文は二つの世界を対比させています。

世界 詩的意味
クレオパトラのいない世界 静けさ・透明・無欲・平和
クレオパトラのいる世界 魅惑・混乱・欲望・運命の奔流

この対比は、
“美は世界を変える”
という詩の永遠のテーマを呼び起こします。


🌌 5. この文は“美の罪”を歌う詩

詩的に読むと、この文は

美は罪である
しかし、その罪こそが世界を輝かせる

という逆説を抱えています。

つまりこの文は、
美に惹かれずにはいられない人間の弱さと幸福
を同時に歌っている。


🌿 6. 詩的読解の結論

この文は、
クレオパトラという名前を借りて、

  • 美の力
  • 欲望の波紋
  • 心の乱れ
  • 運命の不可避性
  • 人間の弱さと甘美さ

を一息に描いた、
**短いが深い“美の詩”**です。


和夫さん、もしよければ次は

  • この文を和歌的に読み替える(和歌化)
  • この文の“対句構造”を日本古典の技法で分析する
  • クレオパトラを別の象徴に置き換えて詩を作る

どの方向でもさらに詩的に展開できます。



和夫さん、ではこの英語の一文を、
和歌の形式・美意識・象徴体系に乗せて“和歌化”してみましょう。
ここでは、単なる翻訳ではなく、
**和歌が持つ「余白」「暗示」「象徴の置換」**を使って詩的に再構成します。


🌙 1. 原文の詩的核を和歌の言語に変換する

原文の核は次の三つです。

  • クレオパトラ=心を乱す美
  • 男の心=波立つ水面
  • もし彼女がいなければ=仮想の静けさ

和歌では、これらを
自然の景物に置き換えて象徴化します。


🌿 2. 和歌化(本歌取り的アプローチ)

🔶 和歌案①(もっとも素直な和歌化)

世にあらば  
心の波も 立ちぬべし  
クレオパトラの  
名こそ乱れめ

意味
「彼女がこの世にあれば、心の波は立ってしまう。
クレオパトラという名こそ、心を乱すのだ。」

※ “名こそ乱れめ” は『古今集』的な語感で、
名前そのものが心を乱す象徴として扱っています。


🔶 和歌案②(“もし存在しなければ”を和歌的に)

なかりせば  
男の心 澄むらむに  
世を乱すらむ  
クレオパトラは

意味
「もし彼女がいなかったなら、男の心は澄んでいただろうに。
それほどに世を乱すのだ、クレオパトラは。」

※ “なかりせば” は古典和歌でよく使われる仮定の表現。


🔶 和歌案③(象徴化を強めた“純和歌的”表現)

クレオパトラという固有名詞を自然の象徴に置き換えると、
より“和歌らしい”世界になります。

秋の夜の  
月なかりせば 波もなく  
男の心  
澄みて明けなむ

意味
「秋の夜の月がなかったなら、波も立たないだろう。
男の心も澄んだまま夜が明けるだろう。」

ここで

  • 月=クレオパトラ(魅惑の象徴)
  • 波=心の乱れ
    という置換を行っています。

和歌は固有名詞を避け、象徴に変換することで
より普遍的な詩になります。


🔶 和歌案④(“美の罪”を詠む方向)

世の人の  
心乱るる 罪ならで  
美しきものの  
さだめとぞ知る

意味
「人の心が乱れるのは罪ではなく、美しいものの宿命なのだ。」

これはクレオパトラを直接出さず、
原文の“美の力”を抽象化した和歌です。


🌸 3. 和歌化のポイント(和夫さん向けの技法整理)

和歌化では次の技法を使いました。

  • 象徴への置換(クレオパトラ→月・光・花など)
  • 仮定法の和歌的表現(なかりせば)
  • 心の動きを自然現象で表す(波・風・霞)
  • 余白を残す(直接言わず暗示する)
  • 本歌取りの語感(乱る、澄む、さだめ、など)

これらを組み合わせることで、
英語の一文が“和歌の世界”に自然に溶け込みます。


🌙 次のステップ

もしさらに深めるなら:

  • クレオパトラを日本古典の女性像に置き換えた和歌化
  • この和歌を“伊勢物語風”に書き換える
  • 象徴体系を整理した比較表を作る

どの方向でも展開できます。



和夫さん、では先ほどの和歌を、
伊勢物語の語り口・情景構成・余情の作り方に従って
“伊勢物語風”に書き換えてみます。

伊勢物語らしさとは、

  • 簡潔な地の文
  • 男の心の揺れを淡く描く
  • 和歌が物語の核心を言い表す
  • 固有名詞を避け、象徴で語る
  • 余白と余情を残す

このあたりが特徴です。


🌙 伊勢物語風・短章(書き下し調)

ある男、世のこと静かに思ひわたりけるに、
かの国より来たりける、
人の心を乱すと聞こゆる女のありけるを、
ふと耳にして、
「かかる人、世になかりせば」と思ひ嘆きけり。

その心を詠める。

なかりせば  
男の心 澄むらむに  
世を乱すらむ  
月の光は

🌿 現代語訳(伊勢物語の雰囲気を保って)

ある男が、世の中のことを静かに考えていたとき、
遠い国から来たという、
人の心を乱すほどの美しさを持つ女の噂を聞いた。

そのとき男はふと、
「もしこの世に、あのような人がいなかったなら、
どれほど心静かに暮らせただろう」と嘆いた。

その思いを歌にした。

もしあの光がなかったなら、
男の心は澄んでいただろうに。
それほどに世を乱すのだ、
あの月のような光は。


🌸 伊勢物語風にするための工夫(技法解説)

✔ 1. 固有名詞を避けて象徴化

クレオパトラ → 月の光
伊勢物語は固有名詞を避け、象徴で語ることが多い。

✔ 2. “ある男”で始める

伊勢物語の典型的導入。

✔ 3. 心の揺れを淡く描く

直接「恋」と言わず、
“心乱る”“澄む”などの語で暗示。

✔ 4. 和歌が物語の核心を言い表す

伊勢物語は和歌が中心で、地の文はその前後を支えるだけ。

✔ 5. 遠い国の女=異国の魅惑

伊勢物語には異国の女性は出ないが、
“遠い国”という曖昧な表現で異質性を出す。


🌌 さらに深めるなら

  • この章段を**完全に伊勢物語の文体(仮名序風)**に寄せる
  • 業平本人が詠んだ体にする
  • 月の光→紅葉→花→霞など象徴を変えて複数バージョンを作る
  • 古今集的語法を混ぜて二重の本歌取りにする

どの方向にも発展できます。



和夫さん、「桜」を象徴に据えて“伊勢物語風”に書き換えると、
物語の気配が一段と柔らかく、そして儚くなります。
桜は 「美しさ」「はかなさ」「心を乱すもの」 の象徴として、
クレオパトラの役割を完全に引き受けることができます。

では、桜を中心に据えた 伊勢物語風・短章 をお届けします。


🌸 伊勢物語風・桜の章

ある男、春のほどに、
山の端に咲き満ちたる桜を見て、
そのあまりの美しさに、
心のうち静かならず思ひける。

「この花、世になかりせば、
人の心も乱れじ」と、
ひとりごちて詠める。

なかりせば  
男の心 澄むらむに  
散りては乱る  
山の桜は

🌿 現代語訳(伊勢物語の気配を保って)

ある男が、春のころ、
山の端に咲き誇る桜を見ていた。

その美しさがあまりにも強く、
心が静まらず、どこか落ち着かない。

そこで男はふと思った。

「もしこの花が世になかったなら、
人の心もこんなに乱れはしないだろうに」

そう嘆いて詠んだ歌。

もし桜がなかったなら、
男の心は澄んでいただろうに。
散るたびに心を乱すのだ、
あの山の桜は。


🌸 桜を象徴にした理由(詩的・伊勢物語的)

✔ 美しさが“心を乱す”

桜はただ美しいだけでなく、
その美が人の心を揺さぶる存在。

✔ 散る=心の乱れ

散り際の儚さは、
クレオパトラの“運命を変える美”と同じ構造を持つ。

✔ 伊勢物語の世界観に自然に溶け込む

伊勢物語は自然の象徴を通して心を語る物語。
桜はその象徴として最適。


🌙 さらに深める方向

  • 桜を“夜桜”にして妖艶さを強める
  • 桜を“散り際”だけで描く極端な詩化
  • 業平本人が詠んだ体で書き換える
  • 桜を“紅葉”に変えて季節の対照を作る

どの方向にも発展できます。


和夫さん、では桜を紅葉に置き換えて、
伊勢物語の語り口・情緒・象徴体系に合わせて
秋の章段として書き直します。

桜の「はかなさ」が、紅葉では
燃えるような美しさ/散りゆく定め/水に流れ落ちる運命
へと変わり、
より深い“心の乱れ”が描けます。


🍁 伊勢物語風・紅葉の章

ある男、秋のほどに、
山の谷より吹きおろす風に、
紅葉の散りかかるを見て、
その色のあまりにあざやかなるに、
心のうち静かならず思ひけり。

「この葉、世になかりせば、
人の心も乱れじ」と、
ひとりごちて詠める。

なかりせば  
男の心 澄むらむに  
水くくる  
竜田の紅葉は

🍂 現代語訳(伊勢物語の気配を保って)

ある男が、秋のころ、
谷から吹く風に散りかかる紅葉を見ていた。

その色があまりにも鮮やかで、
心が静まらず、どこか落ち着かない。

そこで男はふと思った。

「もしこの紅葉が世になかったなら、
人の心もこんなに乱れはしないだろうに」

そう嘆いて詠んだ歌。

もし紅葉がなかったなら、
男の心は澄んでいただろうに。
水をくくるほどに散り乱れて、
心を惑わせるのだ、竜田の紅葉は。


🍁 紅葉版の象徴構造(和夫さん向けの分析)

✔ 紅葉=心を乱す美

桜が「はかなさ」なら、紅葉は
燃える美・散乱・運命の色。

✔ “水くくる”の本歌取り

伊勢物語・古今集の紅葉歌の核心語。
紅葉が水に散り、流れを乱す=心の乱れ。

✔ 竜田川の象徴性

紅葉の名所として、
“美が世界を染める場所”として古典的。

✔ 男の心=澄む/乱る

自然の景物が心の動きをそのまま映す、
伊勢物語の典型的構造。


🌾 さらに深める方向

  • 業平本人が詠んだ体で書く(より雅に)
  • 紅葉を“絞り染め”の象徴として扱う
  • 竜田川の紅葉の古典的系譜(契沖→本居宣長→近代)を踏まえた章段
  • 紅葉の色語彙(照る・散る・乱る・染む)を強化した別バージョン

どの方向にも発展できます。


和夫さん、そう言ってもらえると、こちらも胸の奥がふっと温かくなります。
紅葉の章は、桜よりも少し深い陰影が出て、伊勢物語の世界にとてもよく馴染むんですよね。
あなたの反応が「おもしろかった」という一言なのが、むしろ業平的で粋です。

せっかくなので、余韻としてもう一つだけ“紅葉の情緒”を添えておきます。


🍁 伊勢物語風・余情の一行

散るままに 色を惜しめば 心こそ  
秋の夕べの 風に乱るれ

意味
「散ってゆく色を惜しめば惜しむほど、
心は秋の夕風のように乱れてしまう。」

紅葉は、見つめれば見つめるほど心を揺らす存在。
クレオパトラの“美の力”を、
日本の自然の象徴に置き換えると、
こんなふうに静かで深い揺らぎになります。


もし気が向けば、次は

  • 冬(雪)で書く
  • 夏(蛍)で書く
  • 恋そのものを自然物に置き換える
  • 伊勢物語の特定の段を本歌取りする

どれでも遊べます。
和夫さんの好みの季節や景物に合わせて、
さらに深い章段を作れますよ。



2023年4月30日日曜日

連歌・一人遊び、観覧車まわりつづける想い出は 2023-04-30 追記

■ きっかけと、連想・連鎖

  • 春の日や万博公園観覧車
  • 観覧車まわりつづける想い出は 人それぞれの記憶の中に

  • 観覧車まわりつづける想い出は 
  • 桜吹雪の北国の春
  • 寂しくて桜吹雪の中に立つ

  • 観覧車まわりつづける想い出は 
  • 大学四年夏の日のこと
  • 人一人おぼれて空し夏休み

  • 観覧車まわりつづける想い出は 
  • 青葉若葉とカッコウの声
  • 鶯の声に一息山路かな

  • 観覧車まわりつづける想い出は 
  • 街の明かりと満天の星
  • コスモスや峠の駅の時刻表  cosmos

  • 観覧車まわりつづける想い出は 
  • ふたり旅したあの頃のこと
  • 旅に出て麦わら帽子買いにけり

  • 観覧車まわりつづける想い出は 
  • 寄せては返す波続く浜
  • 流木を九月の海に投げ返す

  • 観覧車まわりつづける想い出は 
  • 古き映画と夏の夜の夢
  • 林真理カリヨンの音ナイアガラ  ナイアガラ、と、カリヨン 
  • 夏の夜はカラリと氷溶けるとき

■ いきなり俳句というのも難しい。
■ 季語がなくてもやってみる。
■ 散文・短歌・俳句
■ 短歌の場合は、上の句から下の句、
■ 俳句の場合は、下の句から上の句。

  • 観覧車まわりつづける想い出は
  • 妻の実家の二匹の猫よ
  • 秋の猫すまして歩くケツの穴

  • 観覧車まわりつづける想い出は
  • 水銀灯の あかり冷たく
  • 雪は締まるその感触を歩み行く