2026年4月1日水曜日

日本語のこと

 日本語はどこから来たのか?世界でも異質すぎる言語の正体|小田真嘉×井戸理恵子

・・・これ面白い。
Bing 動画 【新シリーズ】『日本の深層を知る』プロローグ(井戸理恵子/民俗学・民俗情報工学)
Bing 動画 【海外の反応】2025年 海外でバズった日本の曲|世界で人気な理由が判明
Bing 動画 音楽博士「アメリカで出会った最高な日本の曲」


歌は、「心」と「言葉」が評価の基準

■ 2026-04-01
■ 表題を改めた。
是は心詞かけたる所なきゆえ 追記 2026-03-29、03-30、-31、を
 歌は、「心」と「言葉」が評価の基準、に。
■ 2026-03-29、03-31
■ 2026-03-28
■ こんな頁を書いた。
■ 古今和歌集の仮名序では、「在原業平は、その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくしてにほひ残れるがごとし。」と、さんざんな、辛い評価だ。
■ 古今和歌集には、「たえてさくらの なかりせば ・・・」などがいれられている。
■ この歌も「その心あまりて言葉たらず」ということなんだろう。
■ 紀貫之は「その心あまりて」と評していることからすると「心」は理解していたのだろう。ただ、その詠み方では、ひとが理解できるとも思えない、ということか。
■ 「世の中にたえて桜のなかりせば」の桜を「彼女」のことだと気が付かない人も多いことだろう。
■ そうした評価がある中で、在原業平の歌について、・・・
■ 伝藤原満基筆「百人一首抄(応永抄)」には「是は心詞かけたる所なきゆへに入らるる也。これを以此百首のおもむきをも見侍るべきにぞ」と書いている。
■ なんと。好評ではないか。
■ もちろん藤原定家も、伊勢物語にあるから、ということでもあるが、「素晴らしい」ということでとりあげたはずだ。
■ 「是は心詞かけたる所なき」ということは、完璧な歌、というコトだが、この「是は」「百人一首抄(応永抄)」に書かれているのだから、驚くことなかれ、「千早」という名の女の子が活躍する、涙と友情の、漫画・アニメ・映画にもなっていて、みんな知っている、この歌だ。
  • ちはやふる神世もきかすたつた川 からくれなゐに水くゝるとは   在原業平朝臣
■ この歌は、本当は「心詞かけたる所なき」完璧な歌なのに。ある時期以降、落語にもあるように、意味不明の難解な歌だとされてきた。
たつたがわ、を漢字で書くと川という文字があるだろう
だからと言って、river のことではない
関取が、昔いたんだ
   gawa 
   kawa
分かるかな、この辺が日本語的なのだ
・・・・・・
その関取がな、ちはや、という花魁を見初めたんだが、関取なんて嫌だと拒否された
ならば、妹の、かみよ、でもいい、と交渉したんだがな
おねさまがいやなものは、わちきもいやでありんす、と
ちはや、にふられ
かみよ、もいうことをきかない
かみよも、きかず、だ
へええ、・・・、???
それで、すっかり、世の中が嫌になってな、女断ちをして精進しても、こんなことなら相撲取りなんか、もうやめだ、と故郷に帰ったんだ
父親の豆腐屋を引き継ぎ、暮らしていたところ
店先に女乞食が来て、なにも食べてないので、せめて、おからでもください、という
どこかで見た顔だが、じっとみると、ちはや、だ
お、お前は千早だな
俺を振った、千早じゃないか
お前なんかに
おからだって、くれてやるものか
・・・
からくれないに
というわけだ、分かるかな
え、?、なに、・・・、そういうことですかい
と、話はつづき、拒否された、ちはや、は、とうとう店先の井戸に身を投げてしまう
どぼーん、とな
へええ、そういうことだったんですかぁ、・・・
そういうことだ、わかるかな
井戸の水に身を投げた、つまり
みずくぐるとは、だな
漢字で書くと、水潜る、だ。
と、ここまで話が進み、いい加減だなあ、と思う人もいるだろう。
しかし、「括り染め」ではないぞ、と、落語家は考えたのだ。エライ!。知ったかぶりをするご隠居さんの、訊かれて応えなければ、威厳が保てない立場に、ときどき、子供の宿題の答えが、分からないこともある身の人としては、親近感さえ感じるので、多少の同情を寄せながらも、いい加減さにあきれ、聞き入るのだろう。まあ、うちに子供はいないけど。
この落語が作られた当時は、手書きの文字の札が一般的で、「千早振る神代もきかす」と書かれたのも多かった。いくつかの文字で書かれているが、最初は、
千早振る
と書かれているのが多い。なので、こんな話を思いついたのだ。そのまま、花魁の名前に変えた話にしただけだが、誰でも思いつくわけではない。零落した公家の手内職のカルタを見て、ろくに解釈もできない貴族たちを、「振る」とはなんだ、それが、みやび、かと疑問をもって、明快に解釈できないにしても、何かがおかしい、という庶民心をネタに、ともに笑いとばそうというところは、噺家もたいしたものである。「いつも忙しいと言って、ちゃんと教えてくれない」と言う子供の言葉を耳に残して、ご隠居さんのところに教えを請いにきたのだから、ちょっとでも疑問に思うことは、ちゃんと確認しておかないといけないのだ。ということで、いよいよ最終段階の「オチ」にいたるのだ。
分かるかな。 ・・・、・・・
だいたい、わかったんですがね、最後の、とは、とはなんですかい
なに、それぐらいまけとけ
いやいや、そうはいきません、みそひともじの、ふたもじですから、まけられません
なに、なら、おしえてやろう
とは、とは、だなあ、・・・
なんですか、とは、とは
とは、とは、千早の本名だ。

■ この落語以前から難解だとされてきた。
■ 原因は幾つか重なっているのだ。
■ ちょっと横道に逸れるが、野球解説では、こんな言葉も聞かれる。
からぶり さんしん ばったー あうと
■ 耳で聞いているのを、文字にして、比べると分かる。
空振り
三振
■ どちらも「振る・ふる」が元になっている。
■ このように、いつも聞いて知っていても、必ずしも、十分理解しているとは限らない。
■ まして、一般的に「言葉」としてとらえているとは限らない。
■ 「千早ぶる」ではないことは、この卑近な例でもわかり、更に、夏目漱石の俳句にあるように、「振る」でもないことがわかる。明治時代に、彼は、こんな句を作っている。

   秋立つや千早古る世の杉ありて  漱石。香椎宮

■ 「振る」ではなく「古」だった。即ち、「千早古」だ。
■ 「ちはやふる」が「千早振る」でなく「千早古」だということで、目が覚める思いの人もいるだろうが、頭の切り替えができない人もいるだろう。
■ まあ、そういうもんだ。理解するということは、階段を上るようなもので、1段登るにしても、身が重い人もいる。
■ ついでながら
ちはや
もはや
■ 「ち」は千、「も」は「百」だが、この二つの言葉の使い方を考えてみるのもよいだろう、と思うが、かえって混乱するか、余計なことかもしれない。
■ さて、・・・
■ 島津忠夫訳注・新版百人一首・角川ソフィア文庫の現代語訳は、
(人の世にあってはもちろんのこと)不思議なことのあった神代にも聞いたことがない。竜田川にまっ赤な色に紅葉がちりばめ、その下を水がくぐって流れるということは。
■  この訳は、尾崎雅嘉・百人一首一夕話の解説を受け継いでいる。
歌の心は千早ふるは神といふ枕詞なり。神代には様々の怪しき事共ありしと聞くに、今この竜田川の絵を見れば一面に赤き色の中より青き水がくくると見ゆる、このように怪しき事は神代にもありしとは聞かずといふコトなり。
■  ホンマかいな・・・
■ まあいい。
■ 他の人の解説も見てみよう。

歌人
竜田川の秋、紅葉はからくれないの千入の色だ。川一面の散りもみじは、流れのままに広がり、時に細りもして絞りの染めの美しさ。川がもみじの絞り染めとは、神代の古事にさえ聞いてはおらぬ。
 語注 「ちはやふる」・・・勢いが激しいの意で、「神」の枕詞。

詩人
聞いたこと ないぞ
ちはやぶる 神々の時代にだって
この龍田川の川のみずが
真っ赤な紅葉で
唐の紅色に
括り染めされる
なんてことは

小説家
竜田川の水の面
まるで紅のしぼり染め
紅葉の錦の唐くれない
神代にもこんな美しさがあったとは
聞いたこともない
なんとみごとな美しさ

■ どれも似たようなもんだ。
■ 在原業平のこんな歌はよく知られている。

世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

■ 「春の心」って、「春という季節に「心」はあるの、という人もいたりする。
■ 言葉というものは、厄介なものだ。春という季節に感じる人の心だ、などとわざわざ説明したくはない。
■ 「さくら」は春に咲くのだから、「春の心」といわず、「人の心」でもいい。

世の中にたえて桜のなかりせば人の心はのどけからまし

■ 「春」を「人」に変えてみると、まあ、これでも特に問題もなさそうにも思える。ここまでくると、「桜」も「桜」でなく、「何か」でもいいかもしれないと、「何か」を連想することも「アリ」なのだ。
■ たとえば、「クレオパトラ」
■ 実際のクレオパトラは、もちろん、知らないけれど「クレオパトラ」とはどんな人だったのか。

世の中に クレオパトラの なかりせば 男の心 のどけからまし  遊水

■ このような歌にしてみると、なにか、おもしろい。和歌は日本の詩だが、このようにしてみれば、クレオパトラは誰でも知っているので、世界的にも通じるコトかもしれないな、と思う。これを例えば、英訳して、英語圏の人に訊いてみるのもいいかもしれない。そして、もともとは、「クレオパトラ」ではなくて「桜」になぞらえた詩なんですよ、と説明するといい。日本文化に興味をもち、理解も深まることだろう。
■ 藤原公任は「世の中にたえて桜のなかりせば」の歌を業平の最高作だとしていた、そうな。
■ 「桜」を女性にたとえていたと理解していたからだろう。
■ これなら、「在原業平は、その心あまりて言葉たらず」という評価も理解していたことになる。
■ 日本人でも、現代人は、このへんのところが分からくなっているかもしれない。
■ ここでちょっと書いておこう。
■ ホンマかどうかは知らんけど、「クレオパトラ」は絶世の美女と言われる。
■ 多少、脱線したかもしれない。
■ 白州正子は、こんなことを書いている。

周知のとおり、二条の后が入内される前、業平との間には熱烈な恋愛関係があった。入内された後までも、業平は后のことを忘れることが出来なかったらしいから、題詠にことよせてて、自分の情熱を水くぐる紅葉の紅にたとえとのかもしれない。
・・・
次の二首は、私が愛唱して止まぬ歌である。初めの歌は、高子と会った後、彼女はどこかに連れ去られ、一年ばかり経って、彼女が住んでいたところを訪ねた。折しも月が出て、梅の花が匂っていたので、懐旧の情たえがたく、板敷きに伏して一夜を明かした。そのときに詠んだ歌である。

月やあらぬ春はむかしの春ならぬ
わが身一つはもとの身にして

世のなかにたえて桜のなかりせば
春の心はのどけからまし

■ 後に、藤原俊成女は{月やあらぬ・・・」を本歌取りとして次の歌を詠んだ。

おもかげのかすめる月ぞやどりける春や昔の袖の涙に 藤原俊成女 新古今集 恋二

■ 「月」は相手方の愛していた女性を表している。
■ 同様に「桜」も美しい・あの人を表し、今は会えない。
■ いっそ、会えないならば、いない方がこころ乱れず、静かに暮らせることだろうに、と。
■ 悲しい恋の物語。
■ 白州正子はいいところをとらえながら、他の人と同様に「枕詞」という分類語の呪縛にあってしまった。
■ 「心」と「言葉」が評価の基準歌は、その評に、「その心あまりて言葉たらず」とか「是は心詞かけたる所なき」のように、であることが分かる。なので、作者の「心」は何だったのか、その時の状況はどうだったのか、そして、その歌はだれに宛て、誰に読ませたいのか、それが重要だ。
■ 以前、書いたものを、とりあえず、ここにあげておこう。

在原業平が思っていた神代は、千早古だから、千年の昔で、今から、ざっと二千年まえになる。今と同じように紅葉が美しかったと考えて無理はない。紅葉は日本の自然現象であって、千年経とうが、二千年経とうが、気候は多少変動するにしても、 昔から今までの二千年で、基本的には変わらない。

このような観点から、「千早古」の歌を見直すのもいいんじゃないの、ということになる。
「水くくる」これを「くくり染め」だと解釈したのは、賀茂真淵だそうだが、これはごく普通にみて疑問。賀茂真淵は、頭でっかちの、奇をてらう癖があったような人で、人と違うことをいい、他人の注意を引くかのようだ。
糸で括った部分は染まらず、白く残る。どんな形で残るのかは、絞り染めした布を見れば分かる。到底、紅葉の葉には見えない。又「から紅」に染めるということは、全体としては赤い布になる。赤い川に白い紅葉、ということになる。赤いのは紅葉でしょ。それが白なら、何、これ、ということだ。
そして、一番重要なのは、作者の在原業平の気持ちはどうだったのか。歌は心だ。古今和歌集・巻第五・秋歌下の「そせい」の歌の前の詞書にある状況だった。

二条の后の東宮のみやす所と申しける時に、御屏風に竜田川にもみぢ流れたるかたをかけりけるを題にてよめる
   もみぢ葉のながれてとまるみなとには 紅深き浪やたつらん  そせい
   ちはやふる神世もきかず たつた川から紅にみずくくるとは  なりひら朝臣

このように屏風絵を見て二人が詠んだ。
その屏風の持ち主は、「二条の后」、即ち、業平が恋した、というか、愛した女だった。その人に贈る歌に、自分の心を託さないはずはない。恋をしたことのある、知性ある人ならその心境はよく分かるだろう。川が真っ赤に染まるほどに浮いた一面の紅葉は、当然、二条の后、即ち、藤原高子で、彼女への思いを、その真紅の紅葉の下を流れる川に託した、と解するのがごく常識的のように思われる。出だしを、「千早古 神世も聞かず」、このように漢字で書けば、なんら問題はなかったのに、皆さんは困惑したようだ。
とにかく、業平は、いままで歴史上もないほどの美しい紅葉だ、と思ったのだ。
業平の時代にはなかったが、今は、絶世の美女、という言葉がある、。「絶世」を言い換えれば「神世も聞かず」となる。逆に「神世も聞かず」は「絶世」だ。
その美しい紅葉のようなあなた。
竜田川、即ち、私の上に浮かんでいる。言い換えれば川は紅葉の下を流れている。
当然、「括る」ではない。「潜る」という表現になる。
もみじ、は色々な木や草で見られる現象で、木の種類や場所によって、黄色や赤に変化する。例えば、蔵王のような場所では黄色だ。あるいは、銀杏の場合も黄色だ。紅葉というように「くれない」という文字を使っている葉が赤くなる木が一般的な「もみじ」だ。色づきに一番影響するのは気象条件だ。急激に冷えこんだり、谷川の霧の発生具合など、温度や湿度、あるいは日照条件が紅葉に影響する。植物学的、化学現象的な説明は専門家が解明していることだろう。どのような条件で赤くなるかはインターネットで検索すれば出てくるだろう。地形とか気象条件に基本的な変化がなければ、毎年同じ場所で発生する日本列島における、自然現象だととらえてよい。
千年、二千年の昔、即ち、在原業平が言う、神代の昔から変わることはない、従って、「神代も聞かず」という珍しい現象ではない。しかし、業平は、「神代も聞かず」と思ったのだ。このこと自体を否定してもしようがない。業平は思ったのだ。

繰り返すようだが、もう一度書いてみよう。
この屏風の絵について歌を詠め、と言われて見ると、描かれているのは、紅葉と川だ。屏風絵の紅葉を美しい、と、即ち、画家を褒めたところで、何の意味も面白くもない。画家の技量を褒めているわけではない。
この頃の歌は、単に自然の景を読むのではなく、詠み人の心を詠み込んでいる。ただきれいだ、などと済ますようでは、恋愛などできない。神代は、業平からみて千年の昔のことだ、古い時代の遠い昔のこと。長い歴史の中でも、特に、この紅葉は美しい。こんなに美しい紅葉の話は聞いたこともないと、表現したかったわけだ。
美しい紅葉は、美しい人、を表している。
一面に美しい紅葉を浮かべる川は昔からずっと変わりなく流れ続けている。私の心もこの流れのように変わりない。あなたのことを思っている。と、まあ、こんな感じで業平は歌に詠んだのだろう。

   絶世の 真紅の紅葉 竜田川 昔も今も 変わることなく  遊水

現代では、普通の人は、絶世、という言葉から、絶世の美女、を思い浮かべるだろう。から紅、即ち、真紅の紅葉は女性。もちろん、あなたのことです、と公の場では言葉には出せないものの、在原業平は藤原高子の顔を見ながら、ちはやふる・・・と詠んだのだった。
わかるかな、歌は心だ。こころを歌に詠む、それが当時の歌を評価する基準になる。
まあ、「絶世の」などと作り変えなくても、単に、表記を変えるだけで済むことだ。

   千早古神世も聞かず竜田川韓紅に水潜るとは   業平・遊水書く

現代の人は、おそらく、こんな歌は詠めないだろう。それを定家は取り上げた。伊勢物語にある歌をそのまま取り上げただけだが、定家は評価した。なぜ評価したのか現代人には分からなくなった。学者が変な解釈をしたのが一因だろう。人は、素直にその解釈を信じたのだ。
歯の浮くような、おべんちゃら、を、いけしゃあしゃあ、と、顔だけは真剣そうに言うのが業平だ。しかし、歌としては、これはこれで、ヨオ・デケテル、と言っていい。
 
伝藤原満基筆「百人一首抄(応永抄)」に「是は心詞かけたる所なきゆへに入らるる也。これを以此百首のおもむきをも見侍るべきにぞ」とある、と、島津忠夫が引用している。しかし、まあ、ただ書いただけのようだが、
 
要するに、この「ちはやふる」の歌は、心も言葉も欠けた所がない。即ち、完璧で、この歌で百人一首の全体像が把握できる、としている。
千年、二千年昔、即ち、在原業平がいう神代の昔から紅葉は変わることはない。
現代的にいうならば「絶世の」即ち、この世で一番ということを業平は表現している。
「からくれない」の色の美しさをいい、間接的に、誰よりも、あなたは美しい、との誉め言葉として詠んだ。そして、いつまでも流れ続けている川のように、私はあなたのことを思っている、と。
こうしたことを読み取っていたので、昔は評価され、選ばれ、伊勢物語に記録され、定家によって取り上げられた。




  1. 紫式部、と、藤の花、桐の花。



■ この歌は、伊勢物語に出てくる歌で、伊勢物語とはどんな物語だったのか。
■ そこからみてみるのがいいだろう。
■ そして、この歌が詠まれた状況が一番重要なことだ。
■ 「心詞かけたる所なき」と評した人がいた。
■ この
  1. ことば
■ 歌を詠んだ人、即ち、在原業平の「心」は何ですか、と改めて質問したい。
■ 歌を詠むとは、どういうことだろう。
■ そして、こんな歌をもらって感動するだろうか。





続く