2025年9月17日水曜日

ちょっと変だと思ったこと、清少納言について

■ 2025-09-17
■ 白洲正子著「私の百人一首」新潮選書の表紙にこんなことが書かれていた。

百人一首を書いてみて知ったのは、一つ一つの歌を切りはなして味わうわけにはいかないということだった。和歌の季節やつながり方に、綿密な注意が行き届いているのはいうまでもないが、それぞれ人間関係と、その人々の逸話や歴史にも、深く心を用いていおり、一篇の物語を読むような心地がした。今まで多くの百人一首が作られた中で、鎌倉時代の小倉百人一首だけが生きながらえた所以は、そういう所にあると思う。

■ 私が買ったのは、平成十一年七月十日 十三刷、のモノだが、昭和五十一年十二月十五日発行なので、多くの人に読まれていたと思われる。
■ 平成十一年は西暦1999年だから、2025 - 1999 = 26 、26年ほど前のことだ。
■ 当時「それぞれの人間関係」にはあまり興味はなかったが、紫式部の項にはこんなことが書かれている。
先に記した和泉式部の評でも、後に述べる清少納言についても、彼女の言葉は毒をふくんでいる。若い女房達には甘い紫式部も、ほぼ同時代の二人には辛辣で、それだけ相手を意識していたともいえよう。

■ 和泉式部も、清少納言も、紫式部よりの前の人だから、こんなことになるのだが、清少納言は、百人一首では紫式部よりずっとあとに配置されている。
■ ちょっと変だ。
■ まあ、つけたしみたいな感じだ。
■ 藤原定家は、藤原定家自筆本源氏物語や、紫式部集の定家自筆本系の伝本、があるので、紫式部についてはよく知っていた。ところが、清少納言についてはよく知らなかったのかもしれない、と思っていた。
■ 百人秀歌の存在を知らなかったからだ。
■ 百人秀歌の配置を見ると、

大納言公任
清少納言
和泉式部
大弐三位
赤染衛門
紫式部
小式部内待
権中納言定頼

■ これを見て、なるほどなあと思った。
■ 定家は、百人一首をまとめた時点では「それぞれの人間関係」について十分考えてなかったが、百人秀歌の時点では整理し直したのだと考えられる。
■ 大納言公任のすぐ後に清少納言を配置したということでそれが分かる。
■ 清少納言の逸話で次の二つはよく知られている。
  • 函谷関
  • 香炉峰の雪
■ どちらも、藤原公任の和漢朗詠集に並んで記載されている。
■ このことばかりでなく、配置などの他、二つの違いを比較検討すればよい。
■ 要するに、百人秀歌のあとに百人一首が作られたとする説は、後鳥羽院親子の歌に拘り過ぎた、いい加減なものだと考えらる。