2025年12月30日火曜日

俳句能、癖にする

■ 2025-12-30
■ 俳句は無理に作らない。
■ 例えば、さっき、洋梨を食べた。
■ ただ、うまかったではなく、575、にしてみる。
  • 洋梨や きりょうよしには あらずとも
■ ・・・、もう少し、なんとかならんか、と思いつつ。

2025年12月29日月曜日

年の瀬や みんなどうして いるだろう、と、俳号のこと。

■ 2025-12-29
■ 西村和子のことを書いたので、そのころの俳句など振り返ってみた。
■ ひとりよがり、の俳句にならないように、行ってみたら、と言われて行ったのが1995年のことだった。「千里3号」に「遊水」、「千里4号」に「遊水2」

「遊水3」を掲載

■ 以前から雅号「遊水」を使用している。
■ いつだたか、講師の一人が言った。「みなさん俳号をつけなさい」
■ 「わたしは、昔から、遊水、ですよ」
■ え、そうなんですか、と、・・・
■ いわゆる本名は人から与えられたもの、それとは別の「本名」
■ ・・・
■ 本棚に並んで詩のアンソロジー「恋」があった。
■ 白倉さんがくれたものだ。
■ みると、「千僧小景」があった。
■ 「千僧」は、せんぞ・兵庫県伊丹市の町名であったことを今、知った。
■ ・・・
■ さて、「遊水2」にこんな句をあげた。
  • とうとうと ゆきのだいちを ながれゆく  遊水 
■ 「これは詩であっても、俳句ではない」と、夏秋さんだったか、が言った。
■ その通り、だから「遊水」なのだ。
■ もちろん「遊水」という言葉でなくてもいい。
■ 短歌、とか、俳句、とか、川柳、などという分類がまずあるのではなく、ことば、がある。俳諧、俳句、から「諧」や「俳」を捨てて、ただ、そのままの「ことば」としてあればいい。

芭蕉、と、アンデルセンの人魚


■ 2025-12-29
■ 今朝の「絶望名言」でアンデルセンの人魚は海にいるから涙を流せない、悲しいのに泣けないのは悲しすぎる、こんな話をしている、ようだった。
■ まあ、そういうことだ。
■ それで思い出したが、昔、奥の細道を何度も読んで、色々書いた。旅から帰り5年もしてから、「行く春や鳥啼き魚の目は泪」これを矢立の始めとして、などと書くところに松尾芭蕉のあざとさが見える。
■ 魚が涙を流すはずはない。
■ 支援者の一人、杉山 杉風は江戸日本橋小田原町の魚問屋だった。
■ 「魚」は「杉山 杉風」。自分のこと俳句に書かれ悪い気持ちはしないのだ。
■ 芭蕉の品性が嫌だ。

2025年12月28日日曜日

回顧2025、娘から電話があって笑ったわ お料理の歌・折々の歌 遊水


■ 2025-12-28
■ 日本経済新聞2025-12-17,俳句の欄に、西村和子・素秋、がとりあげられていた。
■ 千里中央・朝日カルチャー・俳句教室?での話
■ 西村和子は季語の話などしていた。
■ 不在の時、大岡 信から電話があった、という話を聞いたのを思い出した。

2025年12月27日土曜日

世の中は 移りにけりな 徒に 我関せずと 眺めせしまに  遊水

■ 2025-12-27
■ 

いろみえで うつろうものは よのなかの ひとのこころの はなにぞありける 小町
はなのいろは うつりにけりな いたずらに わがみよにふる ながめせしまに 小町
カワセミの とびこむさきは ふゆのいけ ゆくとしくるとし かわることなく 遊水

平凡に 過行くときの 早きこと 
  昨日も今日も 変わることなく  遊水

■ ・・・
■ 今日は土曜日だ。
■ 2025年秀作下、俳壇、歌壇を読んだ。
  • 泡盛を酌んでチンダラカヌシヤマヨ  大府 小河旬文
■ この評に、沖縄の方言で「また逢いましょう、美しい人よ」の意。とあった。
■ 「死んだら神様よ」ではない。なら、元の言葉はなんだろうか。
■ どこかで、意味の移りがあった、と考えられる。
  • 夏過ぎて冬来にけらしおでんかな  横浜 波多野眞一
■ なるほど、今年の夏は暑く長かった。
  • 夏暑し秋吹く風のなきごとく  遊水
■ 歌は、
  • 朝っぱらから怠惰自慢の男たち魔法使いを怖がりながら  川端和夫


2025-12-16  吹田市・千里南公園