2016年8月31日水曜日

無處不傷心、と、ランボー「無疵な心」

■ こんな頁が閲覧されていた。
  • 2016/08/31
  • 唐詩選に次の五言絶句がある。
  •       題慈恩塔  荊叔
        漢国山河在 秦陵草樹深
        暮雲千里色 無處不傷心

    これを読んで、二つの詩を思い出した。前半から杜甫、後半からランボーである。ランボーの詩は
    季節よ城よ無疵な心がどこにある (ランボー)
    である。原詩は知らないが、この翻訳はうまい。実にうまい。「無疵な心」には感心した。訳者は小林秀雄ということだが、彼は荊叔の詩を知っていたのだろう。翻訳するとき「無處不傷心」の部分がふっと浮かんできたかのようである。反語的な表現がよく似ている。そっくりである。このように訳されると、あたかもランボー自身が知っていたかのようである。
■ 「原詩は知らないが」、などと書いている。
■ そうか、今まで調べたことがなかった。
■ 取りあえず、・・・
■ 今日は探鳥に行き、・・・
■ また、後でゆっくり見てみよう。
■ 例えば、↓、こんな感じで、秋の渡りは11月初めまで続き、・・・
■ その後は、冬鳥の季節なので、・・・
■ いつになるか分からんが、・・・



2016年8月29日月曜日

不器用に 友も作らず 生きてきた 時々妻と 喧嘩しながら

■ 今日は台風の影響で悪天候だ。
■ 散髪などに向いている。
■ 家を出て、傘をさし、バスに乗り、行った。
■ 傘を見ると、「耐風」などと書かれている。
■ なんなんだかねえ、・・・
■ 台風に、耐風か、ぼんやり外を見ていると、・・・
■ ひとつ歌ができた。
  1. 俳句の575
  2. 短歌の57577
  3. 都都逸の7775
■ このような詩形は、昔から、日本人に馴染みだ。
■ だから、・・・
■ 日本人なら、辞世のひとつも、詠めなきゃダメだよ、などと言ったこともある。
■ まあ、それが素養というものだろうけれど、・・・
  • そんなもの どういでもいいさ あきのかぜ
  • ひところは じせいのうたと おもうたが どうでもいいさ あきのかぜふく
■ と、いうことかな、・・・
■ 歌は、こころが言葉となり口から出てくるだけで、・・・
■ 無教養の豊臣秀吉でも、・・・
  • 露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢
■ まあ、その時、そう思ったのだろう。
■ それで、どうした。
■ そんな人生、つまらんと言えば、つまらないが、・・・
■ 歌というのは内容ではない。
■ 形であり、言葉なのだ。
■ つまらんというなら、ひとつ詠んでみろよ、ということになる。
■ いい歌を作ろうなどすると、なまじ知識が邪魔をする。
■ それに、・・・
■ 私の場合は、天下を目指したわけでも、何に、なったのでもないのだから、・・・
■ つまり、そんな心などないのだから、そんな歌が出てくるはずもない。
■ 平凡なのだ。
■ で、・・・
  • ぶきように とももつくらず いきてきた ときどきつまと けんかしながら
■ バスの中から雨にくもった外を眺めているとこんなコトになったのだ。
■ 時々?、・・・
■ しょっちゅうじゃないの、・・・
■ まあ、歌だから、いいじゃないかよ、時々で、ということだ。





2016年8月24日水曜日

関連する写真、青花の壺

■ こんな頁が閲覧されていた。
■ これで思い出したが、・・・
■ 関連する写真の頁があったはずだ。
■ あとで、探してみよう。
■ これだった。


たんころりんの歌



■ 「たんころりんの歌」は、国会図書館とか、幾つか、図書館にあると思われるが、・・・
■ 作ったのは80部だ。
■ 当時の包装紙のまま、手元にも数冊ある。
■ もともと、一周忌の記念として、ごく個人的なモノのつもりだったが、・・・
■ 今読み返して、ひとつの時代の記録かと思う。
■ 例えば、・・・
  • エンディバー初雪の日に帰還せり   節夫
■ 世に、こういう俳句は、あまり、見ないような気もする。
■ で、このブログで公開しようか、と思う。
■ 取りあえず、・・・
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2016年8月6日土曜日

朝顔や 蔓は虚空を 掴まんと

■ ようやく、今年も咲いた。